第92話「【幕間】直せないと言い続けた男」
夜の技師局は静かだった。床の紙は、まだそのままだ。
オズワルドは拾わなかった。拾うのは、いつも朝と決めている。
机の抽斗は四段ある。上の二段は自分の図だ。下の二段は、他人の図だった。
二十七人ぶん、入っている。
最初の一人は石工だった。名も、顔も、覚えている。その男は三日で図を描いた。
「技師長。二月あれば、通ります」
「通らん」
「なぜです」
「上から、水が来ん」
「上を掘ります」
「掘る許しが出ん」
「出させます」
「出ん」
「では、わたしが掛け合います」
「掛け合った。十一度だ」
「十二度目は」
「同じだ」
「やってみなければ」
「やった者を、三人知っとる」
「その三人は」
「区画を、三つ殺した」
「……わたしは、殺しません」
「みな、そう言った」
その男は、半年で王都を出た。出るときに、図を置いていった。置いていった図は、正しかった。
正しいものが、通らないことがある。
二十七人のうち、図を置いたのは十一人だ。
九人は、何も置かずに消えた。
四人は、前金を持って消えた。
残りは三人だった。三人だけが手を入れた。
一人目は門の腕を継いだ。継いだ腕は動いた。動いたので、その男は褒められた。
継ぎ目が、指一本ぶんずれていた。
ずれた門は、水を斜めに受ける。斜めに受けると、片側の石が減る。
減った石は、十二年で門を落とした。
二人目は落ちた天井を塞いだ。塞ぎ石は三年もった。三年目の春に落ちた。
落ちた先が下の区画だった。下の区画はそれで死んだ。
三人目は詰まりを掘って、通した。通った水は、勢いがついていた。勢いのついた水は、床を洗う。
洗われた床は、二十年で抜けた。
壊れている区画は、四つある。そのうちの三つは、人の手の跡だ。
触らなければ、止まっていただけで済んだ。
止まっているものは、いつか直せる。だが、途中まで直したものは、直せない。
このことを知っているのは、オズワルドだけだった。
一人目とは、落ちる前に一度話した。
「技師長。動いております」
「動いとる」
「褒めてはいただけませんか」
「継ぎ目を、測ったか」
「測りました」
「いくつずれとる」
「……指一本です」
「書いておけ」
「指一本で、何が変わります」
「三十年で、変わる」
「三十年は、先です」
「先が来る」
一人目は来る前に死んだ。門が落ちたのは、その十年あとだ。落ちたことを、その男は知らずに済んだ。
「なぜ、やらせぬ」
「やらせました」
「三人ともか」
「三人ともです」
「結果は」
「区画が、三つ死にました」
「では、四人目を入れよ」
「入れません」
「なぜだ」
「わたしが書かんからです」
「何を書かぬ」
「直せる、と書きません」
「では、なんと書く」
「直せぬ、と書きます」
「四十年、それだけか」
「それだけです」
「民は水を待っておる」
「存じております」
「待たせておいて、書くだけか」
「書くだけです」
「恥ずかしくはないのか」
「恥ずかしくは、あります」
「では、なぜやらぬ」
「恥は区画より安いからです」
大臣は二度と来なかった。来なくなったのは七年前だ。七年、誰も催促に来ていない。
催促が来ないことを、オズワルドは寂しいと思わなかった。
催促が来ているうちは、まだ誰かが半端に手を入れる。
二十年前の秋だった。髪はまだ黒かった。四十年の、ちょうど半分のところだ。
あのころ、書きかけていた紙が一枚ある。はじめて、直せると書こうとしていた。
男は断りもなく入ってきた。道具袋を一つ提げていた。袋の口が擦り切れていた。
「見せてもらっていいか」
「何をだ」
「その図だ」
「あんた、誰だ」
「流れの職人だ」
「名は」
「いらんだろう」
「いる」
「なら、また来る」
オズワルドは図を出した。名を訊くのをやめた。
男は三日いた。一日目は、図を見ていた。図を見ているあいだ、道具袋は開かなかった。
二日目に訊いた。
「あんた、直しに来たのか」
「いや」
「では、なぜ見る」
「見て、わかることがある」
「何がわかる」
「直せんということだ」
「そんなものは、見んでもわかる」
「わからん者が三人おったろう」
「……なぜ、知っとる」
「あんたの図に、書いてある」
「書いた覚えはない」
「継ぎ目の寸法が載っとる」
「載せただけだ」
「指一本ぶん、ずれとるな」
「……ずれとる」
「載せたなら、わかっとったんだ」
「それは、わしが二十年書いとる」
「二十年か」
「……二十年だ」
「なら、あと二十年ある」
「二十年、同じことをするだけだ」
「それでいい」
「よくない」
「あんた、何が要る」
「人だ」
「人か」
「直せる者が一人いればいい」
「……そうか」
「あんたは、直せんのだったな」
「直せん」
「では、なぜ三日もおった」
「三日で足りた」
四日目の朝に、男は出ていった。出るとき、扉のところで振り返った。
「あんた、図を描いとるのか」
「描いとる」
「毎月か」
「月に一度、降りとる」
「何年だ」
「二十年だ」
「なら、それでいい」
「よくない」
「よくないか」
「一つも、直っておらん」
「……直せんものを直せんと言えるのは、技だ」
それだけ言って、出ていった。
オズワルドは追わずに、書きかけの紙を見た。
直せる、の三字を消した。消した跡は、いまも残っている。
顔は覚えていない。二十年で消えた。消えなかったのは、手だ。
爪が平たかった。深爪ではない。
もとから、平たい爪だった。
鑢を持つとき、指を三本しか掛けない。人差し指を、背に乗せない。
あの持ち方は、他で見たことがない。
男が去ったあと、四十年の後ろ半分が始まった。やり方は、何も変えていない。
月に一度、降りる。降りて、測る。測って、直せぬと書く。
四十年で、およそ五百回、そうした。五百回のうち、一度も直していない。
それでよかったのだと、いまは思っている。
オズワルドは灯りを持って、記録庫へ下りた。奥の卓の、いちばん下の抽斗を開けた。
布の下に紙が一枚ある。門の断面を描いた紙だ。四つ折りの跡がついている。
男が出ていった朝、机の上にあったものだ。
余白に、寸法が並んでいる。どれも、この大水道の寸法だった。
測った者にしか、書けない数字だ。
三日目に下で見たものを、オズワルドは二十年、誰にも話していない。
数字の書き方に、癖があった。癖のことも、誰にも話していない。




