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第91話「水のふり」

 音のするほうへ進んだ。灯りを、二つ前へ出した。


 奥は床が下っていた。下った先に、水があった。


「ありましたね」


「ある」


「水ですね」


「水だ」


「四十年、来てないんですよね」


「来ておらん」


「来てますよ」


「……来とるな」


 水は揺れていた。端から端まで、細かく揺れている。揺れているのに、進んでいない。


 流れる水は、揺れの形が先へ動く。この水は動かなかった。


「オズワルドさん」


「なんだ」


「波の山、数えてもいいですか」


「数えろ」


「三つあります」


「三つだな」


「さっきも三つでした」


「そうか」


「同じところにありました」


 俺はしゃがんで、しばらく見ていた。山は動かなかった。揺れているのに、場所が変わらない。


 水の音はしていた。音だけがちゃんとしていた。


「ミオさん」


「なんだ」


「音、どこからですか」


「……どこからでもない」


「どこかからはするはずです」


「全部から、する」


「そうですか」


「近いのも、遠いのも、同じ大きさで来る」


 ミオさんは耳を伏せて、俺の一歩後ろに立った。立ったまま、動かなかった。


 俺は水に手を入れた。冷たくなかった。


 濡れた感じも薄い。


 掬った。掌に残らなかった。こぼれたのではない。


 持ち上げるあいだに、無くなっていた。


「シルフィさん」


「はい」


「これ、触れますか」


「触れます」


「濡れますか」


「……濡れません」


「そうですよね」


「はい」


「森でも、こうですか」


「森は、葉です」


「葉」


「落ちない葉があります」


「落ちてないんですか」


「落ちる形のまま、枝についています」


「同じですね」


「……同じです」



「オズワルドさん」


「なんだ」


「これ、水が」


「水が、なんだ」


「……水のふりを、してます」


 誰も、何も言わなかった。灯りの芯が鳴っていた。炎は揺れていない。


「もう一度、言え」


「水のふりをしてます」


「……ふり」


「はい」


「四十年、そんな言い方は聞いたことがない」


「すみません」


「謝るところではない」


「はい」


「水はふりをせん」


「しないですよね」


「せん」


「じゃあ、たぶん、水じゃないです」


「では、なんだ」


「水だったものだと思います」


「同じだろう」


「違います」


「どう違う」


「本人が忘れてます」


「水に本人があるか」


「あると思います」


「なぜだ」


「流れ方を覚えてるからです」


「覚える、とは」


「同じ石で、同じところが削れます」


「……削れる」


「毎年、同じです」


「そうだな」


「覚えてないと、そうなりません」


 オズワルドさんが、灯りを下げて、水の面に近づけた。


 炎が水に映った。映った炎は、揺れていた。


 上の炎は揺れていない。映ったほうだけが、揺れている。


「……技師長」


 メッツさんの声だった。いつもより低かった。



 真ん中が盛り上がった。盛り上がって、腕の形になった。


 腕は肘から先が無かった。無いまま、こちらへ伸びた。


「下がれ」


 ダグさんが前に出ていた。出て、木の手で払った。


 払った先が崩れて、湿った霧になった。血は出なかった。


 霧は、床に落ちて消えた。消えた場所が乾いていた。


「ルーク様」


「はい」


「お下がりください」


「はい」


 シルフィさんが、刃を抜いた。抜く音は短かった。


 この人は、抜くときに息を止める。止めて、二歩で間を詰めた。


 水の面が、また盛り上がった。今度は、三つだ。


 三つとも、途中で終わっていた。


 肩の無い腕と、指の無い掌と、片側だけの顔だ。


 シルフィさんが二つ落とした。落とした先が霧になった。


 霧は匂いがしなかった。


 三つ目が床から生えた。生えたところは、水の外だった。


「乾いたところからも、出ます」


「そうですか」


「ルーク様、後ろへ」


「はい」


「返事だけで、下がっておられません」


「あ、はい」


「右! 右の穴から戻るニャ!」


 ミオさんが天井を指した。指した先に四角い穴がある。穴の縁だけ、削り跡が新しい。


「行け」


「技師長を先に」


「わしは、いい」


「よくありません」


 メッツさんがオズワルドさんの腕を掴んで引いた。引かれたはずみで、何かが落ちた。


 石の上で二度跳ねた。跳ねて、俺の足元に止まった。鏨だった。


 先が折れていた。


 折れた先は、二歩先に落ちていた。


 俺は両方を拾って、合わせた。


 鋼の粒が互いを探した。探して、噛み合った。継ぎ目が消えた。


 刃先に、細い鏡ができた。


「はい、いいですよ」


 顔を上げた。誰も、こちらを見ていなかった。



 階段は、百二十七段ある。


 上るあいだ、誰も喋らなかった。


 ダグさんがいちばん後ろにいた。いちばん後ろは、いちばん危ない。


 この人は、いつもそこにいる。


「ダグさん」


「なんだ」


「木の手、痛くないですか」


「痛くない」


「じゃあ、いいです」


「……ルークさん」


「はい」


「あんた、後ろで何をしてた」


「鏨を直してました」


「そうか」


「はい」


「そうか」


 石蓋を押し上げた。外は明るかった。明るいのに、声が高い。声は、坂の下から上がってきていた。


 石蓋の周りに、人がいた。二十人ほどだ。見物の顔ではない。待っている顔だった。


 待っている人は、こちらを見ない。


 こちらの手元を見る。


「技師長」


「なんだ、メッツ」


「石蓋の前に人が集まっております」


「誰が集めた」


「誰も集めておりません」


「では、なんだ」


「集まるのです。あの男が下りるたびに」


「見物か」


「見世物です」


「言い方を選べ」


「選んでおります。これは、見世物になります」


 俺は、鏨をオズワルドさんに返した。返すとき、その人は受け取らずに、刃先を見ていた。


「これは、わしのだ」


「はい」


「四十年、使っとる」


「使えますよ、まだ」


「折れたはずだ」


「折れてました」


「……そうか」


「はい」


「なぜ、あの場でこれを拾った」


「落ちてたからです」


「後ろで、あれが出ておったのだぞ」


「出てましたね」


「見ておったのか」


「見てないです。下を向いてました」


 メッツさんがこちらを見て、口を閉じた。閉じてから、また開いた。


 開いても、何も言わなかった。


 人が駆けてきた。下町の男だった。息が上がっている。上がったまま、坂を上りきった。


「医者は! 医者はどこだ!」


「どうしました」


「下町で、子供が倒れた」

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