第90話「腐らないもの」
下へ降りる道は、途中から細くなった。石の階段が、そこで終わる。終わった先は掘り抜きだった。
石を積んだのではなく、岩を削ってある。削り跡が上から下へ流れていた。上から掘った跡だ。
「ここから、道じゃないですね」
「道だ」
「石が積んでないです」
「積む必要がなかったのだろう」
「岩が固いんですね」
「固い」
「じゃあ、正しいです」
段は、まだ続いていた。
数えたが、途中で分からなくなった。途中で、数える気が失せたからだ。そういうことは、あまりない。
「気持ち悪いニャ」
「どうしました」
「音が、こない」
「音」
「壁に、当たって返るはずニャ」
「返らないですか」
「返る。……けど、遅い」
「遅いだけですか」
「近いのに、遅い」
ミオさんはそこで黙って、耳を少し倒したまま、戻さなかった。
ダグさんが前に出て、ミオさんの前に立った。何も言わずに、そうした。
「ダグさん」
「なんだ」
「なんで前に出たんですか」
「なんとなくだ」
「そうですか」
「……」
「はい」
下は思ったより明るかった。灯りが、四つある。
四つで、これだけ見えるのはおかしい。いつもなら、もっと暗い。
暗くならないのは、影が薄いからだ。影が薄いと、明るく見える。
水路は乾いていて、乾いた底に、物が落ちていた。
縄が一本ある。縄は張った形のまま固まっていた。
落ちた縄は、ふつうはたわむ。これは、たわんでいない。
引かれている途中の形をしている。だが、引いていた人はどこにもいない。
「縄、ありますね」
「ある」
「切れてないです」
「切れておらん」
「何年ですか」
「わからん」
「湿ってますよね、ここ」
「湿っとる」
「じゃあ、腐りますよね」
「腐る」
「腐ってないです」
「……腐っておらん」
木箱が二つあった。角が、欠けておらず、板の合わせ目が開いていない。
湿ったところの木は、まず合わせ目が開く。開いてから、黒くなる。
これは、どちらもしていなかった。
箱の脇に袋があった。革の肩に掛ける袋だ。
口の紐がほどけていて、ほどけた口から、中身が見えた。
「パンですね」
「……なんだと」
「これ、パンです」
白かった。焼き色のところは、茶色い。割れ目の中は、白い。
黴が一つもない。
指で押すと、硬かった。硬いだけで、崩れなかった。
乾いたパンは崩れる。これは、乾いてもいなかった。
「この袋、いつのですか」
「型が、古い」
「どれくらいですか」
「百年は、前だ」
「百年」
「留め金の形がいまと違う」
「詳しいですね」
「金物は、型でわかる」
「はい」
「……パンは、百年もたん」
「もちませんね」
「もっとる」
オズワルドさんの声がそこで小さくなった。小さくなったのではない。声が近いところで消えた。
部屋の中で話しているのに、届かない。
距離が音を食っている。
灯りの炎を見ると、揺れていなかった。風がないのではない。
俺の息がかかっても、揺れなかった。
埃が宙に浮いていた。浮いているというより、止まっている。
落ちる途中で、止まっていた。
シルフィさんが立ち止まって、目を閉じた。それから、息を吸った。
吸って、しばらく吐かなかった。
「シルフィさん」
「……はい」
「どうしました」
「……森と、同じ匂いがします」
「森」
「はい」
「エルフの、森ですか」
「……はい」
「同じですか」
「同じです」
「森も、こうなってるんですか」
「……一部です」
「そうですか」
「はい」
それ以上は言わなかった。言わないことは、この人にはよくある。
俺は聞き返さなかった。聞いても、たぶん、答えは同じだ。
ミオさんが俺の袖を掴んだ。掴んで、何も言わなかった。
北の道でも、この人はこうしていた。あのときは、耳が立っていた。
いまは、伏せている。
「ミオさん」
「……」
「戻りますか」
「……」
「戻っていいですよ」
「……いい」
「そうですか」
ダグさんが木の手を握って、開いた。音がしなかった。
湿っているからだと、思いたかった。
俺は縄の前で膝をついて、手を伸ばした。伸ばした先で、手が止まった。
止めたのではない。止まった。
目を閉じて、もとの形を思おうとした。思おうとして、何を思えばいいのか分からなかった。
切れているなら、繋がった形を思えばいい。朽ちているなら、新しい形を思えばいい。
この縄は切れていない。朽ちてもいない。
張ったまま、そこにある。
それが、もとの形ではない。もとの形ではないのに、壊れていない。
「これ、何を直せばいいんでしょう」
「なんだと」
「壊れてるんですけど、壊れてないんです」
「……言っている意味が、わからん」
「俺もです」
「あんたがわからんのか」
「わかりません」
「見れば、わかると言ったろう」
「言いました」
「では、見ろ」
「見てます」
「それで」
「わからないです」
俺は手を引かずに、そのまま置いていた。置いていても何も起きない。
縄は冷たくもなかった。温かくもなかった。手の温度と同じだった。
金物は手の熱を受ける。木も遅れて受ける。
これははじめから同じだった。
はじめから同じものは触っている感じがしない。
「オズワルドさん」
「なんだ」
「ここ、時間が止まってるって言われますか」
「……言う者はおる」
「止まってないです」
「なぜだ」
「止まってたら、埃が落ちません」
「落ちておらんぞ」
「落ちきってないだけです」
「同じことだろう」
「違います」
「どう違う」
「ゆっくりですけど、落ちてます」
オズワルドさんは灯りを下げた。下げて、床を見た。床に埃が薄く積もっている。
積もっているということは、落ちたということだ。
「では、なんだ」
「わかりません」
「わからんのか」
「わかりません」
「四十年、わしもわからん」
「そうみたいですね」
「二十七人も、わからんかった」
「わからないですよ、これ」
その人はそこで笑わずに、板の札を握り直して、奥を見た。
奥は灯りが届かない。届かないところが、まだ続いている。
そのとき、音がした。水の音だった。遠い。遠いのに、はっきり聞こえた。
ここは、音が近くで死ぬ場所だ。その場所で、奥からの音だけが届いた。
「……いま」
「聞こえましたね」
「水だ」
「水ですね」
「この区画は」
「はい」
「四十年、動いておらん」




