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第89話「止まった区画」

 三日後に、札が出た。木の札で、掌の半分ほどの大きさだ。表に朱で判が押してある。


 判は二つ重ねて押されていた。下の判が少しずれている。


 押した人が迷った跡だと思う。


 裏は白いままだった。白いのは、まだ何も済んでいないからだ。


「仮です」


「仮ですか」


「本部からの照会が通っただけです」


「通ったんですね」


「通りました。ただ、差し止めは生きています」


「両方、生きてるんですか」


「はい」


「どっちが強いですか」


「今のところ、同じです」


 イレーヌさんはそれだけ言って、記録帳を閉じた。閉じるとき、少しだけ音が鳴った。


 この人の帳面はいつも同じ音で閉まる。閉め方が決まっている人だ。


「では、見るだけならできます」


「見ます」


「触るのは、まだです」


「触りません」


「……本当ですか」


「触ります」


「ルーク様」


「あ、はい。触りません」



 技師局の床は、まだ紙で白かった。


 オズワルドさんは片づけていなかった。片づけずに、壁に板を掛けていた。板は戸ほどの大きさがある。


 板に、木札が並べて吊ってあった。


 吊ってある紐はどれも新しくない。結び目がほどけて締め直された形をしている。


 何度も、掛け替えた札だ。


 木札は十二枚あった。一枚ずつ、漢数字が彫ってある。


 彫りは深いものと浅いものがある。浅いほうが、あとから足した札だと思う。


「なんですか、これ」


「区画だ」


「十二ですか」


「十二だ」


「下、ぜんぶ繋がってましたよね」


「繋がっとる」


「じゃあ、なんで分けるんですか」


「水は、門で切れる」


「門で」


「切れるところで、分ける」


 その人は、札を四枚、裏返した。裏返すと、黒く塗ってある。塗りは剥げていなかった。


 剥げないのは、裏返す回数が少ないからだ。


 四十年で、動く数はほとんど変わっていない。


「これが動いとる」


「四つですか」


「四つだ」


「三割ですね」


「三割だ」


 残りは八枚あった。八枚は、表のままだ。オズワルドさんは、そのうち三枚に指を置いた。


「これは、水が来んだけだ」


「上が止まってるからですね」


「そうだ」


「上を直せば、来ますか」


「来る」


「じゃあ、壊れてないですね」


「壊れておらん」


 次に、四枚をまとめて指した。


「これは、壊れとる」


「四区画は壊れとる、と」


「そうだ」


「中身は」


「一つは、天井が落ちた」


「はい」


「一つは、詰まった」


「はい」


「一つは、門の腕が折れた」


「はい」


「一つは、床が抜けた」


「わかりやすいですね」


「わかりやすい」


「直せますか」


「わしは、直せん」


「ですよね」


「だが、どこが悪いかは書ける」


「書けるんですね」


「四十年、それだけは書いた」


 俺は板を数え直した。四と、三と、四で、十一枚だ。板には十二枚吊ってある。一枚、余っていた。


 余った札はいちばん端にある。端の紐だけ、色が違っていた。


 新しいのではない。


 触られていないから、褪せていないのだ。


 その一枚だけ、指が置かれていなかった。



「これは」


「……それだ」


「それ、というのは」


「四十年、どう書けばいいか、わからん」


「壊れてないんですか」


「壊れとらん」


「動いてるんですか」


「動いておらん」


「両方ですか」


「両方だ」


 その人は椅子に座って、板を見上げた。見上げる角度が慣れていた。


「天井は、落ちておらん」


「はい」


「詰まっておらん」


「はい」


「門も、折れておらん」


「はい」


「水が、来んだけでもない」


「来る道は、あるんですね」


「ある。上は、動いとる」


「じゃあ、なんで来ないんですか」


「わからん」


「行ってみましたか」


「行った」


「どうでした」


「……戻ってきた」


 メッツさんが部屋の隅から言った。


「技師長はそこだけ実測をお持ちではありません」


「一つだけですか」


「一つだけです」


「四十年で」


「四十年で、一つだけです」


 オズワルドさんは否定せずに、机の抽斗を開けて、台帳を出した。


 台帳は綴じ紐が切れていた。切れたところを、別の紐で括ってある。


 括り方が雑だった。急いだのではなく、興味のない手つきだ。


 紙が波打っている。湿気を、何度も吸った紙だ。


 吸って、乾いて、また吸っている。


 そうなると、紙は厚みだけが増える。


「古い役人の書いたものだ」


「読めますか」


「半分は滲んどる」


 その人は頁をめくった。めくる指が、乾いている。紙は指に貼りついた。


 墨は、たしかに滲んでいた。


 滲んでいるのに、二字だけ濃い。


 濃い二字は筆が違った。筆先の太さが、周りと合っていない。


 あとから、別の人が書いたものだ。


 シルフィさんが横から覗いて、頁を繰る指を止めた。止めたまま、動かさなかった。


「なんて書いてありますか」


「区画の名と、日付だ」


「その先です」


「水、来ズ」


「はい」


「そのあとに、二字ある」


「読めますか」


「読める」


「なんですか」


「……澱み、だ」


「あ」


「なんだ」


「それ、ミルデでも見ました」


 部屋が静かになった。羽根ペンの音もしなかった。


「なんだ、それは」


「……なんでしょうね」


「あんたが言ったんだろう」


「見ただけです」


「どこでだ」


「ギルドの、古い綴りです」


「書いた者は、意味を知っとったか」


「震えた字で、書いてありました」


「……そうか」


 オズワルドさんは頁を戻して、前の頁を見た。前にも、同じ二字があった。次の頁にも、あった。


 同じ筆で、同じ濃さで書いてある。


「三つ、ありますな」


「三つだ」


「どの区画です」


「水が、止まっとる区画だ」


「……全部ですか」


「全部だ」


 メッツさんが板のほうを見た。見て、何も言わなかった。腕は組まなかった。


 組む代わりに、板の端に手を触れた。


 シルフィさんも、何も言わなかった。この人は、こういうとき喋らない。


 喋らないほうが、たぶん、意味がある。


 俺は台帳の端を見た。書いた人の名が、入るところがある。


 そこは、空いていた。


「名前、書いてないですね」


「書いておらん」


「役人の人、名前を書きますよね」


「書く。決まりだ」


「じゃあ、なんで空いてるんですか」


「わからん」


「消したんですか」


「消した跡はない」


「はじめから、書いてないんですね」


「そうだ」


 オズワルドさんは台帳を閉じて、両手を膝に置いた。置いた手が、少し震えていた。


 寒いからではない、と思う。


「見に行くか」


「行きます」


「札は、仮だぞ」


「見るだけです」


「触るなよ」


「触りません」


「……本当だな」


「たぶん」


 その人は立ち上がった。立って、板の余った一枚を外した。


 外して、掌に載せた。載せたまま、しばらく見ていた。


 札は軽いはずだ。軽いものを、両手で持っていた。


「案内する」


「はい」


「……ただし」


「はい」


「あそこは、人がおかしくなる」

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