第88話「親方の推薦状」
「壊せませんか」
「壊す」
「あ、いえ。抜くと落ちるんでしたね」
「落ちる」
「じゃあ、駄目ですね」
「駄目だ」
「向こう側、見たいんですけど」
「見るには、手を入れることになる」
「そうですね」
「あそこは国の史跡だ」
「そうみたいですね」
「勝手に触ると、縄がかかる」
「縄」
「牢だ」
「困りますね」
「困る」
「じゃあ、どうすればいいですか」
「登録しろ」
次の朝、坂を下りた。下りる途中に、職人組合があった。石造りの、間口の広い建物だ。
扉の敷居が真ん中だけ減っている。人が入る場所は、そこだけらしい。
中は、暗かった。窓が高いところにしかない。
匂いは、朱肉と、埃と、古い糊だ。
音は羽根ペンだけだった。書く音が、十いくつ重なっている。
帳場に、長い机がある。机の向こうに、記録係の人が座っていた。
「ご用件を」
「登録に来ました」
「職種は」
「修理です」
「……修理」
「はい」
「石工か、鍛冶か、指物か。どれです」
「全部です」
「全部、というのは、ありません」
「じゃあ、修理でお願いします」
記録係の人は筆を置いて、帳面を一冊出した。出した帳面の縁が黒ずんでいた。
毎日、同じ指で繰る場所だ。
「お名前」
「ルークです」
「工房の所在は」
「オルトです」
「……オルト」
「小さいので、ご存じないと思います」
「存じません」
「はい」
「親方のお名前を」
「ヴァルトです」
「そのお方の推薦状を、お持ちですか」
「持ってないです」
「では、取ってきていただかないと」
「取れないです」
「なぜです」
「親方、死んでます」
羽根ペンの音がいくつか止まった。止まって、また動き出した。
動き出さなかったのは、目の前の一本だけだ。
「……では、どなたか他に」
「他に、いないです」
「他の親方に、口をきいていただければ」
「知り合いがいないです」
「お一人ですか」
「一人です」
「十年、どこかにはおられたでしょう」
「いました」
「そこの親方は」
「いなかったです」
「……いない」
記録係の人は帳面を閉じて、また開いた。同じ頁を、二度見ていた。
欄が上から順に埋まっている。埋まらない欄は、一つだけだった。
推薦、と刷ってある欄だ。そこだけ、白い。
「困りますな」
「困りますか」
「困ります」
「すみません」
「謝られても、書けません」
「はい」
「規則ですので」
「そうですよね」
「……お怒りにならないのですか」
「怒りませんよ」
「なぜです」
「規則を作った人がいるので」
シルフィさんが一歩前へ出て、帳場の縁に手を置いた。
「恐れ入ります」
「はい」
「その規則は、いつのものでしょう」
「……三代前の、組合長の頃です」
「では、直せますね」
記録係の人が口を開けたまま、何も言わなかった。
待たされることになった。
椅子は二つしかない。シルフィさんとイレーヌさんが座った。
俺は立っていた。立っていると、棚が目に入る。帳場の脇の、書き物の棚だ。
戸が半分開いたままになっている。閉めても、指一本ぶん戻ってくる。
下の桟が歪んでいた。
「これ、直していいですか」
「……は」
「戸です。閉まらないですよね」
「十年、そうです」
「じゃあ、直します」
「規則が」
「規則、ありますか」
「……ございません」
「じゃあ、直します」
俺は戸を外して、桟を見た。木が、湿って反っている。
反ったところに、木釘が食い込んでいた。食い込んだまま、乾いて締まっている。
押さえると、繊維が動いて、反りが戻った。戻ると、木釘の頭が浮いた。
浮いた頭を指で押した。押した先が、もとの穴に入った。
「はい、いいですよ」
戸を戻した。
閉めた。
閉まった。音は、一度きりだった。
記録係の人がこちらを見ていた。
「……閉まりましたな」
「閉まりましたね」
「十年、閉まらなかったのです」
「湿っただけです」
「湿っただけ、ですか」
「はい」
扉が開いた。入ってきたのは、書状を持った人だった。
鎧ではない。文の使いの、身なりだった。
書状は帳場の人に渡されて、封が切られた。
切ってから、帳場の人が立ち上がった。
「差し止めの、申し立てです」
「どなたからです」
「……クレイス伯にございます」
イレーヌさんが手を出して、書状を受け取った。受け取って、目だけを動かした。
読む速さが速い。
「無登録の者に史跡を触らせるな、と」
「そう書いてあります」
「正しいですね」
「正しいのですか」
「規則のとおりです」
「では」
「規則のとおりなら、規則で返します」
シルフィさんがイレーヌさんを見た。見て、少しだけ姿勢を変えた。この二人は、こういうとき喋らずに決める。
俺は棚の二枚目の戸を見ていた。二枚目も歪んでいた。
「わしが保証する」
声は扉のところからした。オズワルドさんだった。坂を上ってきた息のまま、そこに立っていた。
「技師長」
「聞いた」
「保証と申されますと」
「わしの名で、この男を通す」
「……四十年の、お名前です」
「四十年ぶん、賭ける」
「もし、悪くなりましたら」
「わしが辞める」
「技師長」
「二十七人のときは、賭けんかった」
「はい」
「今度は、賭ける」
記録係の人が筆を持って、置いた。
また持った。
「保証人だけでは、登録になりません」
「ならんのか」
「親方の推薦が要ります」
「死んどるそうだ」
「はい」
「死んだ者から、どう取る」
「取れません」
イレーヌさんが帳面を閉じた。
「本部の登録簿からなら、回り道があります」
「本部」
「ギルドの登録者は都市の組合に照会をかけられます」
「……そのような例が」
「二度あります。両方とも、通りました」
「調べます」
「どうぞ。二十二年前と、九年前です」
記録係の人は奥へ行って、古い名簿を持ってきた。紙の束が、腕の長さぶんある。
繰る音が、乾いていた。
繰るたびに、埃が薄く立った。立った埃は、窓の光の中でだけ見える。
俺は、そのあいだに二枚目の戸を外した。外して、隣の部屋の窓際へ運んだ。日の当たるところで見たかったからだ。
桟の割れは思ったより深かった。深いので、時間がかかる。
壁の向こうで、まだ紙を繰る音がしていた。声もしていた。
声は、意味にならずに通り過ぎた。
「ヴァルト、という名の職人の登録はありませんな」
「……確かですか」
「この綴りには、ございません」
「もっと古いものは」
「二十年前の出入りは、そもそも記録が残っておりません」
俺は桟の割れに指を当てて、木の目を見た。目は、まだ生きていた。
「あなた、まだ乾いてないですね」
「……」
「じゃあ、戻りますよ」




