第87話「大水道」
「やめられます」
「……ほう」
「手はいつでも離せます」
「離すのか」
「離しません」
「いま、やめられると言ったろう」
「言いました」
「どっちだ」
「離すと、途中で固まるので」
「固まると」
「壊れたものより、始末が悪いです」
「……そうか」
「だから、やめないだけです」
「立派なことだな」
「立派じゃないです」
「なぜだ」
「あとが面倒なのが、嫌なだけです」
オズワルドさんは少し黙って、鍵の束を腰から外した。外した鍵が六本あった。
六本のうち、使ったのは一本だけだった。残りの五本は、握りが黒く光っている。
「降りるぞ」
「はい」
入口は技師局の裏にあった。石の蓋が地面に伏せてある。
蓋は四人がかりで起こした。起こすと、下から風が来た。
風は冷たくなかった。温くて、湿っていた。
「臭いニャ」
「そうですか」
「水の、古いにおい」
「詳しいですね」
「鼻はあるほうだから」
ミオさんは先に足をかけた。かけて、一段だけ降りて、止まった。
「灯り、いちばん前は要らない」
「なぜだ」
「見えなくなるから」
オズワルドさんが灯りを一つ下げて、二番目の人に渡した。この人は言われたとおりにする人だった。
階段は湿っていた。石の面に、苔が薄く乗っている。
苔は端のほうだけ厚い。真ん中は、擦れて禿げていた。
誰かが通り続けた跡だ。
「ここ、まだ人が通ってますね」
「わしが通っとる」
「四十年」
「四十年だ」
「毎日ですか」
「月に一度だ」
「じゃあ、五百回くらいですね」
「……数えたことは、ない」
俺は段を数えた。数える癖は、直らない。百二十七段あった。
降りきると、灯りが上まで届かなくなった。届かないのが、天井だ。
天井があるのは、わかる。
水の音が上から返ってくる。
返り方が外とまるで違った。
外では、音は上へ抜けていく。ここでは、抜けずに戻ってくる。
戻ってくるまでが長い。
「大きいですね」
「それだけか」
「はい」
「二十七人はみな声を上げた」
「そうですか」
「大きい、で終わりか」
「まだ、端まで見てないので」
オズワルドさんが灯りを高く上げた。上げても、天井は出てこなかった。
「腕、十八本ぶんだ」
「高いですね」
「幅は、二十二本」
「測ったんですか」
「測った」
「暗いのに」
「縄でだ」
道は水路の脇にあった。人が二人並べる幅がある。
水路の底は乾いていた。乾いた底に、白い筋が残っている。水があった高さだ。
高さは俺の腰まであった。
筋は一本ではなかった。
三本ある。
三度、水位が下がったということだ。
いちばん下の筋が、いちばん濃い。そこで、長く止まっていたらしい。
「ここ、昔は流れてたんですね」
「流れとった」
「いつまでですか」
「わからん」
「記録は」
「ここの分は、無い」
しばらく歩くと、音が変わった。前のほうから、水の音がした。
音は遅れて返ってくる。返ってくるまでの間が、広さだった。広いところは、遅い。
「動いてますね」
「動いとる」
「全部ですか」
「三割だ」
「三割」
「あとの七割は死んどる」
「死んでるんですか」
「わしはそう書いた」
「書いただけですか」
「……そうだ」
ダグさんが木の手を握り直して、開いた。もう一度、握った。
「鳴らねえ」
「なんですか」
「この手だ。乾くと軋む」
「湿ってますからね」
「ここは、いい」
「よかったですね」
「よかねえよ。帰りに割れる」
暗渠は細かった。天井が急に下がる。
頭を屈めて通った。通ると、また広くなった。広くなったところに、柱があった。
柱は上へ行くほど細くなっている。
細くするのは、重さを逃がすためだ。逃がした先が、どこかにある。
どこかは、まだ見えない。
水の音が、右から来ていた。
「止まって」
ミオさんが手を上げた。全員が、止まった。
オズワルドさんも止まった。この人が、人の言うことで足を止めた。
「風、右から来てるニャ。奥、繋がってる」
「地図では、行き止まりだ」
「繋がってる」
「なぜ、わかる」
「風が戻ってこないから」
オズワルドさんは右を見て、道を空け、ミオさんを前に出した。
「先に行け」
「いいの」
「地図より、鼻だ」
「わかったニャ」
ミオさんが先を歩いた。歩き方が、昼と違う。
足の裏を、先に置いてから体を乗せている。音がほとんどしなかった。
シルフィさんが俺の横に並んだ。
「あの子、いい斥候ですね」
「……はい」
「見習いって、言ってましたけど」
「言っておりました」
「もう、見習いじゃないですね」
「……本人には、まだ言わないでください」
「なぜですか」
「言うと、荷を背負い直しますので」
行き止まりに、壁があった。石が隙間なく積んである。
目地に、鑿の跡が残っていた。斜めに、同じ角度で入っている。
一人の手で、全部打った跡だ。
真ん中に、大きな石が一つある。その石だけ、目が細かかった。
「これは、なんですか」
「要石だ」
「要石」
「その一つで、周りを押さえとる」
「抜いたら」
「落ちる」
「全部ですか」
「この先まで、全部だ」
「怖いですね」
「怖い」
俺は灯りを近づけて、面を見た。
石は四つの角を落としてある。
落とし方は削りではない。打って、欠いて、また打っている。打った順が跡でわかった。
跡は、右から左へ流れていた。
「四十年、ここが端だと思っとった」
「端じゃないんですか」
「地図では、端だ」
「あの子は繋がってると言いました」
「……言っておったな」
シルフィさんが灯りを持ち上げて、俺の手元を覗き込んだ。覗き込んだまま、動かなくなった。
「シルフィさん」
「……はい」
「灯り、少し下です」
「……はい」
その人の手は下がらなかった。下がらないまま、止まっていた。
ミオさんが壁の下を嗅いでいた。嗅いで、耳を一度だけ倒した。
倒して、すぐに戻した。
俺は、もう一度、角を見た。
落とし幅は、指一本ぶん。四つとも、同じだった。
角を落とす幅は、人ごとに違う。癖が出るところだからだ。
こんな石は、そう何度も見ない。だが、見たことがあった。
四日ぶん、街道の先で見ていた。
「あ、これ、ミルデにありました」
「……なんだと」




