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第86話「四十年」

 オズワルドさんは扉のところで止まっていた。止まって、動かなかった。


「まだ、途中です」


「……途中」


「あと少しあります」


「回っておるぞ」


「中が、繋がっただけです」


「外は」


「これからです」


 その人はそこから一歩も動かずに、机の上だけを見ていた。


 窓が白い。夜が明けきる前の、色のない白さだ。


 灯りはまだ点いていた。点いているのに、影が薄くなっている。


 俺は手を戻した。戻した指がしびれていた。しびれは、夜のあいだに来たものだ。


 緑青が浮き始めた。浮くというより、離れていく。面から、粉になって離れる。


 粉は下へ落ちた。落ちて、机に輪を作った。輪の内側だけが明るくなった。


「……緑が落ちとる」


「落ちます」


「四十年、落ちんかった」


「はい」


「洗った。削った。落ちんかった」


「削ると、下も減りますよ」


「……減った」


「もったいないです」


「言うな」


 粉が落ちきった。落ちる音はしなかった。粉は、そういう落ち方をする。


 下から、色が出た。


 金ではない。


 青銅の、地肌だ。地肌は思ったより赤かった。


「欠けてたところ、見ててください」


「どこだ」


「三枚目の歯です」


「欠けとる」


「はい」


 欠けが内側から満ちた。外から盛ったのではない。


 中から押し出てきた。歯の形になって止まった。止まった高さが、隣と同じだった。


 継ぎ目は、無い。継いだのではないので、無い。


「……戻ったのか」


「戻りました」


「削って、合わせたのではないのか」


「削ってません」


「では、足したのか」


「足してもいません」


「なら、なんだ」


「もとが、そうでした」


 オズワルドさんは口を開けたまま黙って、扉の枠を掴んだ。掴んだ手が白くなっていた。


「次、軸です」


「軸は曲がっとる」


「曲がってました」


 短い軸が鳴った。小さく一度だけ鳴って、まっすぐになった。


 まっすぐになると、音が変わった。


 七つの歯車の音が揃った。揃うと、うるさくなくなる。


「うるさくなくなりましたね」


「……そうだな」


「合ってると、静かです」


「知っとる」


「はい」


「知っとるが、聞いたことがない」


 面に線が出てきた。細い線だ。


 斜めに、間を空けて入っている。


「これ、鏨ですね」


「鏨」


「打った跡です」


「……見えておらんかった」


「緑の下でした」


「四十年、下にあったのか」


「あったと思います」


「四十年、わしは何を写しとった」


「緑を写してました」


 俺は手を離した。離しても、回っていた。


「はい、いいですよ」


 水は一滴も入れていない。



 オズワルドさんは机まで来ずに、床に膝をついた。膝をついて、紙の山に手を入れた。


「シルフィさん」


「はい」


「あの人、何をしてますか」


「……並べておられます」


 紙が床に敷かれていった。一枚、また一枚と広がる。


 置き方が、でたらめではなかった。古いものが窓側で、新しいものが扉側だ。


 順を覚えている人の、並べ方だった。


 部屋の床が白くなった。歩く道が無くなった。


 四十年ぶんの紙が、そこにあった。


 紙の縁がどれも同じ色に焼けている。同じ場所に、同じ年数だけ積んであった色だ。


「技師長」


「触るな」


「はい」


「順がある」


「はい」


 その人は四つん這いで進んで、一枚を取り上げた。取り上げて、模型を見た。見て、また紙へ戻った。


 それを、二十回ほど繰り返した。


 途中から口が動いていた。声は、出ていなかった。


 やがて、一枚のところで止まった。


「……ここだ」


「なんですか」


「わしの図は、ここが間違っとった」


「どこですか」


「軸だ」


「短いやつですか」


「四十年、軸の向きを逆に描いとった」


「逆でしたか」


「逆だ」


「じゃあ、ずっと逆に回してたんですね」


「……回らんはずだ」


「回りませんね」


「回らん」


 その人は紙を持ったまま座り込んだ。


 泣かなかった。膝もつかなかった。


 もう、ついていた。


「直しますか」


「なんだと」


「その紙です」


「紙を、直すのか」


「たぶん、直ります」


「触るな」


「はい」


「これは、わしが書き直す」


「はい」


「四十年ぶん、書き直す」


「時間、かかりますね」


「かかる」


「手伝いますよ」


「いらん」


 ミオさんが戸口から覗いて、床の紙を見て足を止めた。踏むところが無いのがわかったらしい。


「入れないニャ」


「入らなくていいですよ」


「なんで白いの」


「あの人の、四十年です」



「失礼します」


 メッツさんが入ってきた。入って、二歩目で止まった。止まって、床を見た。それから、机を見た。


「技師長。……これは」


「見てのとおりだ」


「回っております」


「回っとる」


「昨日は、回っておりませんでした」


「回っておらんかった」


 メッツさんは机に寄って、模型に顔を近づけた。近づけて、しばらく動かなかった。


 睫毛が動いていない。息も止めているように見えた。


 それから、俺を見た。見る目が、昨日と同じだった。


 昨日と同じなのが、この人らしいと思った。


「これは、別の物ですね」


「同じ物です」


「緑青がありません」


「落としました」


「四十年、落ちなかったものが」


「落ちました」


「……すり替えです」


「そうですか」


「同じ物を、もう一つ作ればいい」


「作れますか」


「職人なら、作れます」


 オズワルドさんが床から言った。顔は上げなかった。


「作れるなら、お前が作れ」


「技師長」


「歯は四十二、二十八、十四だ」


「……はい」


「中の軸は、何に繋がっとる」


「……」


「言えんだろう」


「……はい」


「わしも言えん」


「では」


「言えん者に、同じ物は作れん」


 メッツさんは腕を組んで、ほどいた。ほどいたのは、初めて見た。


「信じておりません」


「いいですよ」


「なぜ、いいのです」


「回ってるので」


「回っていることと、信じることは別です」


「そうですね」


「……否定なさらないのですか」


「はい」


 メッツさんはそれきり黙って、部屋の隅に立っていた。出ていかなかったのは、たぶん、見るためだ。


 オズワルドさんが立ち上がった。立つとき、机に手をつかなかった。


「おい」


「はい」


「下へ降りる」


「はい」


「案内する」


「ありがとうございます」


「……ただし、一つだけ聞かせろ」


「はい」


 その人は、模型を見なかった。俺の手を、見ていた。


「あんた、途中でやめられるか」

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