第85話「動かない模型」
箱の蓋は留め金で止めてあった。留め金は錆びていない。開け閉めが続いていた証拠だ。
「開けるぞ」
「はい」
蓋が上がった。中に緑があった。
布の緑ではない。金物の緑だった。
「これ、青銅ですか」
「そうだ」
「緑青ですね」
「四十年、この色だ」
「四十年、この色ですか」
「一年目から、この色だった」
「増えてないんですね」
「増えん」
「変ですね」
「変か」
「青銅は、ふつう増えます」
オズワルドさんは答えずに、箱の底の革を外した。外して、模型を出した。
大きさは掌ふたつぶんだ。持ち上げると、思ったより重い。中に、詰まっているものがある。
「なんの形ですか」
「閘門だ」
「こうもん」
「水を止めて、貯めて、送る門だ」
「下にあるやつの」
「十分の一だ」
「これで、動かすんですか」
「動かん」
「昔は」
「動いたと、記録にある」
「見た人は」
「おらん」
歯車が七つ見えた。軸が三本ある。三本のうち、一本だけ短い。
「この短いの、何ですか」
「わからん」
「外に出てませんね」
「出ておらん」
「中で、何かに繋がってますか」
「繋がっとる」
「何にですか」
「わからん」
「開けたことは」
「ある」
「どうでした」
「開かん」
「割ったら」
「割った者がおる」
「どうなりましたか」
「二度と、閉まらなくなった」
「それは、困りますね」
「困った」
「その人は」
「二十七人のうちの、一人だ」
俺は短い軸をもう一度見た。先が内側を向いている。外へ出す気のない軸だった。
「押していいですか」
「押した者は、二十七人おる」
「じゃあ、押します」
俺はいちばん外の歯車に触れて、押した。動かなかった。
「固まってますか」
「固まっとる」
「固まってないです」
「なんだと」
「錆で止まると、指に返りが来ます」
「返り」
「押し返す感じです」
「これは」
「何もないです」
「何もない、とは」
「押しても、押してることになりません」
「……もう一度、言え」
「壊れてるんじゃないと思います」
「では、なんだ」
「止まってるだけです」
「同じことだろう」
「違います」
「どう違う」
「壊れたものは、直せます」
「これは」
「直し方が、まだわかりません」
俺は両手で持ち直した。持ち直すと、重さの寄りがわかった。寄りは真ん中にある。
外は軽く中が重い。
石より冷たかった。
金物は、手の熱を受ける。これは、受けなかった。持っていても、ぬるくならない。
目を閉じて、もとの形を思った。思おうとした。
像が結ばなかった。結びかけて、散った。散ったのは、真ん中だった。
外側は見える。歯車の歯も、軸の穴も見える。真ん中だけが、抜けていた。
抜けているのでは、ない。俺が知らないだけだ。知らない形は、思えない。
「……」
「どうした」
「……」
「おい」
「時間が、かかります」
「どれくらいだ」
「わかりません」
「見当は」
「つきません」
「なぜだ」
「こういうの、初めてなので」
オズワルドさんは椅子に座り直して、腕を組んだ。
「初めてと言った男は、初めてだ」
「そうですか」
「二十七人は、みな日数を言った」
「言えるんですね」
「言えるから、帰った」
「なるほど」
「三日と言った男が、二日で帰った」
「途中で、やめたんですね」
「……そうだ」
「俺は、やめません」
「なら、何日だ」
「わかりません」
その人は笑わなかった。
「一つだけ、言っておく」
「はい」
「それは、下にあるものの十分の一だ」
「はい」
「十分の一で、四十年だ」
「そうですね」
「十倍のものが、下にある」
「見ます」
「見ると言うのは、まだ早い」
「はい」
「まず、それを回せ」
「回します」
その人は灯りを一つ持ってきて、机の端に置いた。置いてから、何も言わずに出ていった。
出ていく足音が廊下の途中で止まって、しばらく動かなかった。
それから、遠ざかった。
夜になった。窓が小さいので、暗くなるのが早い。
シルフィさんが灯りに油を足した。足して、何も言わなかった。この人は、こういうとき喋らない。
俺が手を離せないときだけ、そうする。
「あなた、どうなってたんですか」
俺は模型に聞いた。
模型は、答えない。
「回ってたんですよね」
答えない。
「どっち回りですか」
答えない。
「じゃあ、両方やってみます」
歯を一つずつ数えた。
いちばん外が、四十二枚。
次が、二十八枚。その次が、十四枚。
半分になっていく。半分にするのは、速さを落とすためだ。
落とした先に、何かがある。その何かが、思えない。
思えないので、外から順に触った。
触ると、冷たさが指に残った。残った冷たさは、しばらく消えない。
「あなた、水の中にいたんですね」
答えない。
「冷たいままなの、そのせいですか」
答えない。
「聞いてるだけです。急がなくていいです」
戸口から、声がした。
「飯だ」
「あとで」
「いま食え」
「手が、離せません」
「口は空いとる」
「……はい」
ダグさんがパンを半分に割って、俺の口元へ持ってきた。俺はそれをもらった。
「うまいか」
「うまいです」
「王都のパンだ」
「オルトのほうが、うまいです」
「そうか」
「はい」
ダグさんはそれ以上は言わずに、また戸口へ戻った。
ミオさんは膝を抱えて眠っていた。眠る前に、二度、荷を背負い直した。背負ったまま、寝ている。
ダグさんは戸口に立っていた。夜のあいだ、そこから動かない。
一度だけ、木の手の布を巻き直した。
「ルーク様」
「はい」
「油を足します」
「はい」
それだけだった。
この人は、三度目は足さない。二度で足りるように、はじめに量を決めている。
二度目の油が朝まで持った。
俺は手を離さなかった。離すと、途中で固まる。固まったものは、壊れたものより始末が悪い。
窓が白くなった。白くなってから、廊下に足音がした。足音は、途中から速くなった。
扉が開いた。
「まだ、おるのか」
オズワルドさんの声が、そこで切れた。切れて、何も続かなかった。
机の上で、音がしていた。小さい音だ。金物が、金物に触れる音。
歯車が回っていた。七つとも、回っていた。
水は、一滴も入れていない。




