第84話「宮廷技師長オズワルド」
技師局は王城の裏にあった。石造りの、低い建物だ。
窓が小さい。小さい窓は、紙を焼かないためだ。
軒の下に、雨を落とす溝が切ってある。
溝の底に砂が溜まっていた。溜まったまま、掃かれていない。
建物の面倒を見る人がいないらしい。中の紙の面倒だけを、見ているのだと思う。
廊下に入ると匂いがした。膠と、墨と、古い紙の匂いだった。
工房の匂いに、近い。
「ここ、いいところですね」
「……そうか」
「匂いで、わかります」
「何がだ」
「働いてる人が、いる匂いです」
「褒めておるのか」
「言っただけです」
案内の人が扉の前で止まって、少し待った。入るのをためらっている。
「開けなくて、いいですか」
「……開けます」
「怖い人ですか」
「怖くは、ありません」
「じゃあ」
「機嫌がいい日がありません」
「毎日ですか」
「四十年、毎日です」
扉の中は紙だった。机が紙で埋まっている。
床にも積んであった。積んだ紙の高さが、腰まである。
紙はみんな同じ大きさに切ってあった。同じ大きさに切るのは、後で並べるためだ。
並べる気のある人の、積み方だった。
いちばん上の紙に線が引いてある。線の脇に、細かい数字が入っていた。
数字は後から書き足したものだ。インクの色が、線と違う。
同じ紙に、三度は書き足されていた。
その奥に、人が座っていた。
「技師長」
「聞いた」
「まだ、何も」
「聞いた」
顔は上げずに、筆を置いた。置いてから、こちらを見た。
目の下に線が三本入っている。六十を越えた人の顔だった。
髪は白いのに、背は曲がっていない。毎日、机に向かう人の背だ。背は、使っていると曲がらない。
「オズワルドだ」
「ルークです」
「座れ」
「はい」
椅子は一つしかなかった。俺が座ると、みんな立ったままになる。
「立たせておくぞ」
「はい」
「あんたに、恨みはない」
「はい」
「だが、期待もしていない」
「はい」
後ろで、誰かが息を吸った。シルフィさんだと思う。思ったが、振り返らなかった。
「四十年で、二十七人来た」
「二十七人」
「二十七人、帰った」
「全員ですか」
「全員だ」
「そうですか」
「うち三人は、手を入れて帰った」
「入れて」
「おかげで、あそこは三つぶん悪くなっとる」
オズワルドさんは筆を取って、また置いた。置く場所を探していたが、置く場所は、どこにもなかった。
「途中で、やめたんですね」
「なんだと」
「その三人です」
「……そうだ」
「途中でやめると、途中の形で固まります」
「知っとるのか」
「はい」
「なぜ、知っとる」
「一度、危なかったので」
その人の手が止まって、しばらく動かなかった。
「言っておく」
「はい」
「わしは、あれは直せんと言い続けてきた」
「はい」
「四十年、言い続けた」
「長いですね」
「長い」
「それで、悪くならなかったんですね」
部屋が静かになった。
横に立っていた人が腕を組み直した。副技師長の、メッツという人だった。
「技師長は、止めてこられました」
「そうみたいですね」
「二十七人、全員です」
「大変でしたね」
「……恨まれておいでです」
「そうでしょうね」
「あなたも、恨みますか」
「恨みません」
「なぜです」
「止める人は、いたほうがいいので」
メッツさんは腕をほどいて、また組んだ。組み直すのは、迷ったときだ。
シルフィさんが少し前へ出て、すぐに止まった。止まったのは、俺が動かなかったからだと思う。
ミオさんは紙の山を見て、指で高さを測っている。測っても、上まで届かなかった。
「怒らんのか」
「なぜですか」
「無駄足だと言われて、怒らん者はおらん」
「合ってると思うので」
「合っとる」
「はい」
「わしが、合っとると」
「二十七人が帰ったなら、二十八人目も帰るかもしれません」
「そう思うのか」
「思います」
「なら、帰れ」
「じゃあ、見せてもらっていいですか」
オズワルドさんの眉が動いた。
「話を聞いておったか」
「聞いてました」
「聞いて、それか」
「見ないと、わからないので」
「見れば、わかるのか」
「わかるかも、しれません」
「わからんかったら」
「帰ります」
「帰ると、言ったな」
「言いました」
「二十七人も、そう言った」
「じゃあ、二十八人目もそう言います」
その人は手をこすった。爪に墨が入っている。入った墨は、洗っても落ちない。
指の腹に胼胝があった。筆の胼胝と、金槌の胼胝は、場所が違う。この人には、両方あった。
親指の付け根に鏨の傷。鏨は、外すと自分の手に来る。
貴族の手ではなかった。四十年、机だけにいた人の手でもない。
「あんた、手を見せろ」
「はい」
俺は手を出した。
その人は、見ただけだった。触らずに、見て、頷いた。
「……働く手だ」
「はい」
「なぜ、手袋をせん」
「触らないと、直せないので」
「触るのか」
「はい」
「触って、どうする」
「もとの形を思います」
「思うだけか」
「思うだけです」
「思って、直るのか」
「直ります」
「……そうか」
「信じなくて、いいです」
「信じておらん」
「はい」
「だが、聞いた話とは違う」
「なんて聞きましたか」
「触れば何でも直る、と」
「何でもは、直りません」
「ほう」
「知らないものは、思えません」
オズワルドさんはそこで目を細めて、俺の顔を見直した。見直し方がさっきと違った。
人を見る目ではなかった。道具を見る目でも、なかった。図面を見るときの目だと思う。
その人は椅子から立った。立つとき、机に手をついた。膝がまっすぐには伸びなかった。
立って、部屋の隅へ歩いた。歩く道が、紙のあいだに一本できている。
毎日そこを通る幅だった。
紙の山の後ろに棚がある。棚の下から、箱を引き出した。引き出す手つきが迷わなかった。
どこにあるかを、忘れていない人の手だ。
箱は埃をかぶっていた。かぶった埃の厚みが、年数だった。
その人は箱を机に置いた。
紙の上に一箇所だけ空きがある。箱の大きさと、同じ空きだった。
その空きは、四十年ぶんの癖だと思った。
「これを直せたら、下へ案内する」




