第9話「聖女シルフィ」
結局、スープは温め直した。
二杯ぶんに分けて、片方をシルフィの前に置く。木の椀は、鍋と一緒に直しておいた。割れ目が三本あったが、いまはどこにあったかもわからない。
彼女は椀を両手で持って、しばらく湯気を見ていた。
「冷めますよ」
「……はい」
「薄いですけど」
「……はい」
一口すすった。
それから、動きが止まった。
「どうかしました」
「熱い」
「あ、すみません」
シルフィは首を横に振った。
振ってから、椀を持つ手にもう一度力を入れた。
「熱いのが腹に落ちます。落ちる場所がわかるのです」
「そうですか」
「久しぶりです」
二口目からは、少し速くなった。喉が鳴る音がした。
俺は自分の椀を持って、床に座った。
急がせないほうがいい。前に、三日ぶりに食べる人を見たことがある。あれは急いで、あとで全部戻していた。
「ゆっくりでいいですよ」
「はい」
おかわりはない。それは言わないことにした。
「あの、聞いていいですか」
「どうぞ」
「さっきから、喋り方が変わってませんか」
シルフィの手が止まった。
「……気にしないでください」
「はい」
「気にしないでください」
「二回言いましたね」
彼女は椀に顔を戻した。
俺は聞かないことにした。人の喋り方は、人の物だ。
「じゃあ、別のことを聞きます」
「どうぞ」
「シルフィさんは、何をしている人ですか」
椀の中で、湯気が揺れた。
「エルダの森の、聖女です」
「せいじょ」
言われた言葉を、そのまま口の中で転がしてみた。
聞いたことはある。街の礼拝堂にも、そう呼ばれる人がいた。遠くから見ただけだ。
「えらい人ですか」
「……役目です。えらいかどうかは知りません」
俺はうなずいた。
いい答えだと思った。親方も似たようなことを言っていた。仕事にえらいも何もない、と。
「森の真ん中に木があります」
シルフィが言った。
「大樹エルダといいます」
「大きいんですか」
「見上げても、てっぺんが見えません」
「へえ」
「……へえ、で済ませないでください」
「すみません」
シルフィは椀を置いて、両手で大きさを示そうとした。
示そうとして途中でやめた。手のひらの中に収まる大きさではないと気づいたらしい。
「わたしたちはあの木の下で生まれ、あの木の下で死にます」
言い方に力みがなかった。
「聖女はその木に仕える役です」
俺は少し考えた。
仕えると言われても、木は返事をしない。返事をしないものの世話をするのは、けっこう根気がいる。
「お世話をする人ですか」
シルフィが小さくうなずいた。
「どんなことをするんですか」
「水を運びます。根の見回りをします」
それから、と彼女は指を一本足した。
「葉を数えます」
「数えるんですか」
「数えます。落ちた枚数を日ごとに」
「大変ですね、それ」
「大変です」
初めて、少しだけ笑った気がした。
笑ったというより、口の端が動いただけだ。それでも動いた。
三年ぶんの何かが、そこで一枚はがれたように見えた。
「掃除みたいですね」
「……掃除です」
シルフィは背筋を伸ばした。
「掃除です。そのとおりです」
「いい仕事ですよ」
「……」
「毎日やらないと、駄目になるやつですよね」
シルフィは、答えなかった。
答えの代わりに、椀の縁を指でなぞった。爪の色が桜色に戻っている。昨日までは灰色だった爪だ。
「近ごろ、葉が落ちます」
「秋ですか」
「秋ではありません」
「季節ではないのです」
「そうですか」
それきりその話は終わった。
終わらせたのは、彼女のほうだ。俺は聞き返さなかった。
持ち主が話したくないものを、こじ開けるのは仕事ではない。
「じゃあ、また別のことを聞きます」
「どうぞ」
「失礼ですけど、おいくつですか」
シルフィが、こちらを見た。
「……人間の数え方で言うと」
言いにくそうだった。
「あなたの、十いくつぶんです」
俺は指を折った。
二本目でやめた。
「じゃあ、俺のほうが子供ですね」
「……はい」
「言葉遣い、直したほうがいいですか」
「そのままで」
「あと、ひとつだけ」
シルフィが椀を置いた。
「脚はどうしてああなったんですか」
小屋が静かになった。
炉の中で薪が小さく鳴った。外では、鳥が同じ節をくり返している。
「魔物ではありません」
シルフィが言った。椀を置く音が思ったより硬かった。
「昨日のあれですか」
「あれは、あとから来たものです。毒は森の奥のものです」
「奥」
シルフィがうなずいた。
「森って奥のほうが濃いんですか。空気とか」
「濃いのは、澱みです」
聞いたことのない言葉だった。
言い方が、地名を言うときの言い方に似ていた。物の名でも、病の名でもない。場所の名だ。
「よどみ」
声に出すと、湿った音になった。
「川のですか」
シルフィは首を振った。
振ってからしばらく言葉を探していたが、見つからなかったようだった。
「森の奥に、そういう場所があるのです」
「わたしは、そこへ降りました」
「なんでですか」
「……役目です」
「戻ってきたときには、脚が黒くなっていました」
俺はうなずいた。
それ以上は、聞かなかった。
毒の出どころを知っても、俺にできることは変わらない。壊れているものを、壊れる前に戻す。それだけだ。
「森の術者が三人がかりで押さえてくれたんですよね」
「はい」
「いい人たちですね」
返事の代わりに、まぶたが下りた。
「お礼、言ってあげてください」
「……はい」
シルフィは、両手を膝の上で重ねた。
手の甲が細い。骨の形がそのまま出ている。この人は、脚が壊れる前からあまり食べていなかったのだろう。
「これ以上は話せません」
「はい」
「聞かないのですか」
「持ち主の物ですから」
「……持ち主」
シルフィは、俺をじっと見た。
何か言おうとしてやめた。それから、思い出したように顔を上げた。
「わたしの、荷物」
「あ、あります」
俺は立ち上がった。
昨日、草の中に落ちていた革の袋だ。泥だらけだったので、外の壁に立てかけてある。
「泥、落としておきました」
「……ありがとうございます」
シルフィは袋を受け取って、口を開けた。
中を探る手が、途中で止まった。
止まったまま、動かない。
「ありました?」
「……あります」
取り出したのは、布の包みだった。
細長い。両手で持てるくらいの大きさだ。布はもとは白かったのだろう。いまは灰色に汚れている。
シルフィは、それを膝の上に置いた。
結び目をほどいた。指がうまく動いていない。
開いた布の上にあったのは、短剣だった。
正確には短剣だったものだ。
柄は炭のように黒く焦げて、指で押せば崩れそうに見えた。刃はない。
代わりに、細かい欠片が散らばっていた。
数えられないほどの、粉々の欠片が。




