↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/111

第9話「聖女シルフィ」

 結局、スープは温め直した。


 二杯ぶんに分けて、片方をシルフィの前に置く。木の椀は、鍋と一緒に直しておいた。割れ目が三本あったが、いまはどこにあったかもわからない。


 彼女は椀を両手で持って、しばらく湯気を見ていた。


「冷めますよ」


「……はい」


「薄いですけど」


「……はい」


 一口すすった。


 それから、動きが止まった。


「どうかしました」


「熱い」


「あ、すみません」


 シルフィは首を横に振った。


 振ってから、椀を持つ手にもう一度力を入れた。


「熱いのが腹に落ちます。落ちる場所がわかるのです」


「そうですか」


「久しぶりです」


 二口目からは、少し速くなった。喉が鳴る音がした。


 俺は自分の椀を持って、床に座った。


 急がせないほうがいい。前に、三日ぶりに食べる人を見たことがある。あれは急いで、あとで全部戻していた。


「ゆっくりでいいですよ」


「はい」


 おかわりはない。それは言わないことにした。



「あの、聞いていいですか」


「どうぞ」


「さっきから、喋り方が変わってませんか」


 シルフィの手が止まった。


「……気にしないでください」


「はい」


「気にしないでください」


「二回言いましたね」


 彼女は椀に顔を戻した。


 俺は聞かないことにした。人の喋り方は、人の物だ。


「じゃあ、別のことを聞きます」


「どうぞ」


「シルフィさんは、何をしている人ですか」


 椀の中で、湯気が揺れた。


「エルダの森の、聖女です」


「せいじょ」


 言われた言葉を、そのまま口の中で転がしてみた。


 聞いたことはある。街の礼拝堂にも、そう呼ばれる人がいた。遠くから見ただけだ。


「えらい人ですか」


「……役目です。えらいかどうかは知りません」


 俺はうなずいた。


 いい答えだと思った。親方も似たようなことを言っていた。仕事にえらいも何もない、と。


「森の真ん中に木があります」


 シルフィが言った。


「大樹エルダといいます」


「大きいんですか」


「見上げても、てっぺんが見えません」


「へえ」


「……へえ、で済ませないでください」


「すみません」


 シルフィは椀を置いて、両手で大きさを示そうとした。


 示そうとして途中でやめた。手のひらの中に収まる大きさではないと気づいたらしい。


「わたしたちはあの木の下で生まれ、あの木の下で死にます」


 言い方に力みがなかった。


「聖女はその木に仕える役です」


 俺は少し考えた。


 仕えると言われても、木は返事をしない。返事をしないものの世話をするのは、けっこう根気がいる。


「お世話をする人ですか」


 シルフィが小さくうなずいた。


「どんなことをするんですか」


「水を運びます。根の見回りをします」


 それから、と彼女は指を一本足した。


「葉を数えます」


「数えるんですか」


「数えます。落ちた枚数を日ごとに」


「大変ですね、それ」


「大変です」


 初めて、少しだけ笑った気がした。


 笑ったというより、口の端が動いただけだ。それでも動いた。


 三年ぶんの何かが、そこで一枚はがれたように見えた。


「掃除みたいですね」


「……掃除です」


 シルフィは背筋を伸ばした。


「掃除です。そのとおりです」


「いい仕事ですよ」


「……」


「毎日やらないと、駄目になるやつですよね」


 シルフィは、答えなかった。


 答えの代わりに、椀の縁を指でなぞった。爪の色が桜色に戻っている。昨日までは灰色だった爪だ。


「近ごろ、葉が落ちます」


「秋ですか」


「秋ではありません」


「季節ではないのです」


「そうですか」


 それきりその話は終わった。


 終わらせたのは、彼女のほうだ。俺は聞き返さなかった。


 持ち主が話したくないものを、こじ開けるのは仕事ではない。


「じゃあ、また別のことを聞きます」


「どうぞ」


「失礼ですけど、おいくつですか」


 シルフィが、こちらを見た。


「……人間の数え方で言うと」


 言いにくそうだった。


「あなたの、十いくつぶんです」


 俺は指を折った。


 二本目でやめた。


「じゃあ、俺のほうが子供ですね」


「……はい」


「言葉遣い、直したほうがいいですか」


「そのままで」


「あと、ひとつだけ」


 シルフィが椀を置いた。


「脚はどうしてああなったんですか」


 小屋が静かになった。


 炉の中で薪が小さく鳴った。外では、鳥が同じ節をくり返している。


「魔物ではありません」


 シルフィが言った。椀を置く音が思ったより硬かった。


「昨日のあれですか」


「あれは、あとから来たものです。毒は森の奥のものです」


「奥」


 シルフィがうなずいた。


「森って奥のほうが濃いんですか。空気とか」


「濃いのは、澱みです」


 聞いたことのない言葉だった。


 言い方が、地名を言うときの言い方に似ていた。物の名でも、病の名でもない。場所の名だ。


「よどみ」


 声に出すと、湿った音になった。


「川のですか」


 シルフィは首を振った。


 振ってからしばらく言葉を探していたが、見つからなかったようだった。


「森の奥に、そういう場所があるのです」


「わたしは、そこへ降りました」


「なんでですか」


「……役目です」


「戻ってきたときには、脚が黒くなっていました」


 俺はうなずいた。


 それ以上は、聞かなかった。


 毒の出どころを知っても、俺にできることは変わらない。壊れているものを、壊れる前に戻す。それだけだ。


「森の術者が三人がかりで押さえてくれたんですよね」


「はい」


「いい人たちですね」


 返事の代わりに、まぶたが下りた。


「お礼、言ってあげてください」


「……はい」


 シルフィは、両手を膝の上で重ねた。


 手の甲が細い。骨の形がそのまま出ている。この人は、脚が壊れる前からあまり食べていなかったのだろう。


「これ以上は話せません」


「はい」


「聞かないのですか」


「持ち主の物ですから」


「……持ち主」


 シルフィは、俺をじっと見た。


 何か言おうとしてやめた。それから、思い出したように顔を上げた。


「わたしの、荷物」


「あ、あります」


 俺は立ち上がった。


 昨日、草の中に落ちていた革の袋だ。泥だらけだったので、外の壁に立てかけてある。


「泥、落としておきました」


「……ありがとうございます」


 シルフィは袋を受け取って、口を開けた。


 中を探る手が、途中で止まった。


 止まったまま、動かない。


「ありました?」


「……あります」


 取り出したのは、布の包みだった。


 細長い。両手で持てるくらいの大きさだ。布はもとは白かったのだろう。いまは灰色に汚れている。


 シルフィは、それを膝の上に置いた。


 結び目をほどいた。指がうまく動いていない。


 開いた布の上にあったのは、短剣だった。


 正確には短剣だったものだ。


 柄は炭のように黒く焦げて、指で押せば崩れそうに見えた。刃はない。


 代わりに、細かい欠片が散らばっていた。


 数えられないほどの、粉々の欠片が。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。