第8話「奇跡と、修理」
返事は、なかった。
鍋の中で、薄いスープが小さく震えている。湯気が、朝の光の中をまっすぐ上がっていく。
俺は鍋を火から下ろして、向き直った。
「あ、すみません。順番が変でしたね」
「……」
「先に、脚の説明をしたほうがいいですよね」
「……」
シルフィは、まだ自分の右脚を見ている。
触れた手を離さない。指先で、脛を何度もなぞっている。同じところを、行ったり来たりだ。
確かめている、というより、疑っている手つきだった。
「痛みますか」
「……いいえ」
「よかった」
「痛くない」
「はい」
「痛く、ないの」
声が震えていた。
「三年、痛かったのよ」
「そうですか」
「眠るときも、起きるときも」
「それは大変でしたね」
「あなた、わかっていないでしょう」
「はい」
正直に答えた。嘘をつく理由がない。
「わからないです。俺、痛くないので」
シルフィが、こちらを見た。
青い目が、大きく開いている。何か言いかけて、やめた。
それから、床に手をついた。
立とうとしている。
「あ、待ってください。急に立つと」
遅かった。
シルフィは、立った。
両脚で。
膝が伸びている。腰が上がって、背骨がまっすぐになった。三年ぶんの傾きが、そこで消えた。
「……立てた」
「立てますよ。直しましたから」
「立て、た」
一歩、前へ出た。
二歩。三歩。
四歩目で、少しよろけた。手を出しかけたが、倒れなかった。
「筋力が落ちてるだけです」
「……」
「歩けば戻ります」
「歩ける」
「はい」
「わたしが」
「はい」
シルフィは戸口まで歩いて、そこで振り返った。
振り返るとき、脚を引かなかった。
それが本人にもわかったらしい。
口元が、おかしな形に歪んだ。笑おうとして、失敗したような顔だった。
「……ああ」
声が漏れた。
喉から押し出されたような、形にならない声だった。
両手が、胸のところで宙を掴んでいる。掴むものがなくて、また落ちる。
「ああ。ああ」
「あの」
「奇跡だわ」
「え」
「これは、奇跡よ」
「いえ」
俺は首を振った。
「修理です」
「……修理」
「はい」
シルフィは、そのまま外へ出た。
止める間もなかった。
俺も戸口へ出る。朝の光が斜めに差して、露に濡れた草が白く光っていた。
シルフィは、裸足のまま草の上に立っていた。
両足で、土を踏んでいる。
踏んで、確かめて、また踏んでいる。子供が浅い川を渡るときの歩き方だった。
「冷たくないですか」
「冷たい」
「じゃあ、戻りましょう」
「冷たいのがわかるの」
「はい?」
「この足で。冷たいと、わかるのよ」
俺は、うなずいた。
鉄を直したとき、鉄は何も言わない。よく切れるようになりましたとも、軽くなりましたとも言わない。
だが、人は言う。
そこが、少し違う。
「よかったですね」
「……」
「靴はあとで直しますね。片方だめになってました」
右の靴だ。中で足が動かなくなってから、引きずって歩いた跡がついていた。
底が斜めに減っている。減り方を見れば、どんなふうに歩いていたかがわかる。
見ないほうがよかったな、と思った。
シルフィは答えなかった。
膝が折れた。
草の上に、両膝をついたのだ。
「わっ。大丈夫ですか」
駆け寄ったら、手のひらで止められた。
止めておいて、彼女は膝をついたままだった。
それから、頭を下げようとした。
「あ、いや、いやいや」
俺は慌てた。
「やめてください」
「……」
「そういうのは、やめてください」
「わたしは、あなたに」
「工賃です」
「……は」
「いただくのは、工賃だけで」
シルフィが、顔を上げた。
「工賃」
「はい」
「……いくら」
「パン一個で」
沈黙があった。
露が、草の先から落ちた。それが聞こえるくらい、長い沈黙だった。
「パン」
「はい」
「一個」
「はい。あ、半分でもいいです」
前に一度、荷車の車軸を直して、パンを一個もらったことがある。
根元から裂けた車軸だった。道の端にしゃがんで、木の目を一本ずつ合わせた。
もらいすぎだと思った。いまでも、そう思っている。
「……」
「いま、うちにパンがないので、あとでいいですよ」
「……」
「催促じゃないです。すみません」
シルフィは、口を半分開けたまま止まっている。
言い値が高すぎたのかと思った。
たしかに、手間ではあった。半日かかっている。鉄なら三十本は直せる時間だ。
でも、材料代はかかっていない。
「あ、道具も使ってないので」
「……道具」
「はい。鑢とか、金槌とか」
「使わずに脚を」
「使いようがないので」
「……」
「なので、パン一個で足りると思うんですけど」
「足りない」
「そうですか。じゃあ、二個で」
「そうではなくて」
シルフィの声が、かすれた。
「そうでは、なくて」
「あの、座りませんか。そこ、埃っぽいですよ」
シルフィは動かなかった。
「わたしは、森でいちばん深く癒す者たちに見放されたのよ」
「聞きました」
「三人がかりで、十日」
「はい」
「その三人が、無理だと言った」
「はい」
「あなたは半日で」
「半日もかかってしまいましたね」
「……」
「すみません」
「なぜ謝るの」
「遅かったので」
シルフィが、両手で顔を覆った。
肩が揺れている。泣いているのか笑っているのか、俺にはわからなかった。
銀の髪が、朝の光を受けて肩から流れ落ちた。その下で、長い耳の先が細かく震えている。
三年、待っていた人の背中だった。待つのをやめた人の背中でもあった。
困って、俺は小屋のほうを見た。
スープが冷めかけている。せっかく火にかけたのに、もったいない。
「あの、冷めるので」
「……人間」
「ルークです」
「ルーク」
「はい」
シルフィが、指の間からこちらを見た。
青い目が、赤くなっていた。
「奇跡を修理と呼ぶ人を、わたしは知らない」
「奇跡じゃないですよ」
「では、なんなの」
「壊れてたのを、戻しただけです」
「壊れて」
「はい」
「……壊れて、いた」
「はい。ひどく壊れてました」
シルフィは、しばらく黙っていた。
草の上で、両手を膝の上に置き直した。背筋が伸びる。
顔を上げたとき、その目はもう泣いていなかった。
「あなたは、何者ですか」
言葉が、変わっていた。
さっきまでの喋り方ではない。
「町の修理屋です」
俺は答えた。
本当のことしか、言っていない。




