↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
8/107

第8話「奇跡と、修理」

 返事は、なかった。


 鍋の中で、薄いスープが小さく震えている。湯気が、朝の光の中をまっすぐ上がっていく。


 俺は鍋を火から下ろして、向き直った。


「あ、すみません。順番が変でしたね」


「……」


「先に、脚の説明をしたほうがいいですよね」


「……」


 シルフィは、まだ自分の右脚を見ている。


 触れた手を離さない。指先で、脛を何度もなぞっている。同じところを、行ったり来たりだ。


 確かめている、というより、疑っている手つきだった。


「痛みますか」


「……いいえ」


「よかった」


「痛くない」


「はい」


「痛く、ないの」


 声が震えていた。


「三年、痛かったのよ」


「そうですか」


「眠るときも、起きるときも」


「それは大変でしたね」


「あなた、わかっていないでしょう」


「はい」


 正直に答えた。嘘をつく理由がない。


「わからないです。俺、痛くないので」


 シルフィが、こちらを見た。


 青い目が、大きく開いている。何か言いかけて、やめた。


 それから、床に手をついた。


 立とうとしている。


「あ、待ってください。急に立つと」


 遅かった。


 シルフィは、立った。


 両脚で。


 膝が伸びている。腰が上がって、背骨がまっすぐになった。三年ぶんの傾きが、そこで消えた。


「……立てた」


「立てますよ。直しましたから」


「立て、た」


 一歩、前へ出た。


 二歩。三歩。


 四歩目で、少しよろけた。手を出しかけたが、倒れなかった。


「筋力が落ちてるだけです」


「……」


「歩けば戻ります」


「歩ける」


「はい」


「わたしが」


「はい」


 シルフィは戸口まで歩いて、そこで振り返った。


 振り返るとき、脚を引かなかった。


 それが本人にもわかったらしい。


 口元が、おかしな形に歪んだ。笑おうとして、失敗したような顔だった。


「……ああ」


 声が漏れた。


 喉から押し出されたような、形にならない声だった。


 両手が、胸のところで宙を掴んでいる。掴むものがなくて、また落ちる。


「ああ。ああ」


「あの」


「奇跡だわ」


「え」


「これは、奇跡よ」


「いえ」


 俺は首を振った。


「修理です」


「……修理」


「はい」



 シルフィは、そのまま外へ出た。


 止める間もなかった。


 俺も戸口へ出る。朝の光が斜めに差して、露に濡れた草が白く光っていた。


 シルフィは、裸足のまま草の上に立っていた。


 両足で、土を踏んでいる。


 踏んで、確かめて、また踏んでいる。子供が浅い川を渡るときの歩き方だった。


「冷たくないですか」


「冷たい」


「じゃあ、戻りましょう」


「冷たいのがわかるの」


「はい?」


「この足で。冷たいと、わかるのよ」


 俺は、うなずいた。


 鉄を直したとき、鉄は何も言わない。よく切れるようになりましたとも、軽くなりましたとも言わない。


 だが、人は言う。


 そこが、少し違う。


「よかったですね」


「……」


「靴はあとで直しますね。片方だめになってました」


 右の靴だ。中で足が動かなくなってから、引きずって歩いた跡がついていた。


 底が斜めに減っている。減り方を見れば、どんなふうに歩いていたかがわかる。


 見ないほうがよかったな、と思った。


 シルフィは答えなかった。


 膝が折れた。


 草の上に、両膝をついたのだ。


「わっ。大丈夫ですか」


 駆け寄ったら、手のひらで止められた。


 止めておいて、彼女は膝をついたままだった。


 それから、頭を下げようとした。


「あ、いや、いやいや」


 俺は慌てた。


「やめてください」


「……」


「そういうのは、やめてください」


「わたしは、あなたに」


「工賃です」


「……は」


「いただくのは、工賃だけで」


 シルフィが、顔を上げた。


「工賃」


「はい」


「……いくら」


「パン一個で」


 沈黙があった。


 露が、草の先から落ちた。それが聞こえるくらい、長い沈黙だった。


「パン」


「はい」


「一個」


「はい。あ、半分でもいいです」


 前に一度、荷車の車軸を直して、パンを一個もらったことがある。


 根元から裂けた車軸だった。道の端にしゃがんで、木の目を一本ずつ合わせた。


 もらいすぎだと思った。いまでも、そう思っている。


「……」


「いま、うちにパンがないので、あとでいいですよ」


「……」


「催促じゃないです。すみません」


 シルフィは、口を半分開けたまま止まっている。


 言い値が高すぎたのかと思った。


 たしかに、手間ではあった。半日かかっている。鉄なら三十本は直せる時間だ。


 でも、材料代はかかっていない。


「あ、道具も使ってないので」


「……道具」


「はい。鑢とか、金槌とか」


「使わずに脚を」


「使いようがないので」


「……」


「なので、パン一個で足りると思うんですけど」


「足りない」


「そうですか。じゃあ、二個で」


「そうではなくて」


 シルフィの声が、かすれた。


「そうでは、なくて」


「あの、座りませんか。そこ、埃っぽいですよ」


 シルフィは動かなかった。


「わたしは、森でいちばん深く癒す者たちに見放されたのよ」


「聞きました」


「三人がかりで、十日」


「はい」


「その三人が、無理だと言った」


「はい」


「あなたは半日で」


「半日もかかってしまいましたね」


「……」


「すみません」


「なぜ謝るの」


「遅かったので」


 シルフィが、両手で顔を覆った。


 肩が揺れている。泣いているのか笑っているのか、俺にはわからなかった。


 銀の髪が、朝の光を受けて肩から流れ落ちた。その下で、長い耳の先が細かく震えている。


 三年、待っていた人の背中だった。待つのをやめた人の背中でもあった。


 困って、俺は小屋のほうを見た。


 スープが冷めかけている。せっかく火にかけたのに、もったいない。


「あの、冷めるので」


「……人間」


「ルークです」


「ルーク」


「はい」


 シルフィが、指の間からこちらを見た。


 青い目が、赤くなっていた。


「奇跡を修理と呼ぶ人を、わたしは知らない」


「奇跡じゃないですよ」


「では、なんなの」


「壊れてたのを、戻しただけです」


「壊れて」


「はい」


「……壊れて、いた」


「はい。ひどく壊れてました」


 シルフィは、しばらく黙っていた。


 草の上で、両手を膝の上に置き直した。背筋が伸びる。


 顔を上げたとき、その目はもう泣いていなかった。


「あなたは、何者ですか」


 言葉が、変わっていた。


 さっきまでの喋り方ではない。


「町の修理屋です」


 俺は答えた。


 本当のことしか、言っていない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。