第10話「直らないもの」
小屋の中が、急に静かになった。
炉の火は落ち着いていて、朝の光が戸の隙間から一本だけ差している。その線が、ちょうど布の上を横切っていた。
「見てもいいですか」
布に手を伸ばしかけて、俺は止めた。
人の物だ。勝手に触るものではない。
「……どうぞ」
シルフィの声は、平らだった。
膝の上の布を、そのまま少しだけこちらへ回してくれる。それだけの動きに、ずいぶん時間がかかった。
俺は膝をついて、顔を近づけた。
柄だった部分は黒い。
黒いというより炭だ。木の目が焼けて縮んで、表面に細かい亀裂が走っている。息を吹いたら粉になりそうだった。
刃はなかった。
布の上に散っているのは欠片だ。大きいもので爪の半分、小さいものは砂に近い。
数えるまでもなく足りない。散った粉のぶんだけ、確実に減っている。
「これ、刃ですよね」
「はい」
「よく持って帰りましたね」
「……ひとつずつ拾いました」
「そうですか」
「土に混じったぶんは、土ごと」
俺はうなずいた。
その拾い方はわかる。俺も、砕けた歯車の欠片を土ごと篩にかけたことがある。三日かかった。膝が痛くなった。
ただ、あれは仕事だった。これは、そうではない。
「これ、どなたの」
「母の物です」
「お母さんの」
「はい」
シルフィは、布の端を指でそろえた。
「母はもういません」
「そうですか」
「わたしが受け取ったとき、もう古い物でした」
「大事にされてたんですね」
「……」
「柄の擦れ方でわかります。ここ、持つところが減ってます」
焦げていても、そこだけ形が違う。指の腹が当たるところが、わずかにへこんでいる。
長く持たれた物にしか、この窪みはつかない。母親の手のぶんと、この人の手のぶんが重なっている。
シルフィが、顔を上げた。
少しの間、こちらを見ていた。それから、また下を向いた。
「割れたのはいつですか」
「三年前です」
「脚と同じときですか」
「はい」
声がそこで一度切れた。
「奥で抜きました」
俺は黙ってうなずいた。
「抜いた刃が白くなって」
布の端を握る指に、力が入っていた。
「そのあとのことは、覚えていません」
「そうですか」
それ以上は聞かなかった。
聞いても、直し方が変わるわけではない。
欠片の一つを指の先で軽くつついてみた。動く。くっついてはいない。
「森の術で、三度、繕いを試しました」
シルフィが言った。
「はい」
「わたしの手で二度、樹守の長の手で一度」
「駄目でしたか」
「粉が粉のままでした」
欠片を見た。継ぎ目の跡はない。誰も手をつけていない割れ口だ。
「そのあと、人の国へ行きました」
「王都ですか」
「はい。剣を打つ人を、三人」
「なんて言われました」
「いちばん腕のいい方は、触れませんでした」
シルフィは、そこで少しだけ笑った。
「これは、わしの知っている金属ではないと」
「わかる人ですね、その人」
「……そうでしょうか」
「はい。触らないのも、腕のうちですよ」
本気で言った。
わからない物に手を出すと、たいてい壊す。
親方は、そういう物を三日でも四日でも眺めていた。眺めてわからなければ、そのまま返した。
「もう一人の方は、継げると言いました」
「継ぐ」
「はい。芯を入れて、鉄で巻いて、形にすると」
「なるほど」
「それは、母の短剣ではありません」
「そうですね」
俺も、そう思った。
それは新しい短剣を作る話だ。修理ではない。
「だから、断りました」
いい判断だと思った。持ち主にしかできない判断でもある。
「そのあとは、誰にも見せていません」
シルフィは布の四隅を持った。
包み直そうとしている。指の動きが速い。早く仕舞ってしまいたいときの手つきだった。
「あ」
俺は、声を出していた。
「直しましょうか」
手が、止まった。
止まったまま、動かない。長い間があった。
「……いいえ」
「はい」
「結構です」
俺は引き下がった。
持ち主が要らないと言うなら、要らないのだ。三原則も何もない。人の物である。
立ち上がって、炉のほうへ戻った。薪を一本足す。
背中で、布の擦れる音がした。
「ルーク」
「はい」
「怒らないのですか」
「なんでですか」
「せっかく、と」
「思わないです」
火を見たまま答えた。
「直らないほうがいい物も、ありますから」
「……これは、違います」
薪が、小さく爆ぜた。
「直ってほしいのです」
「はい」
「でも」
声が、詰まった。
「もう三年、駄目でした」
三年は長い。物なら待てるが、人は待てない。
「駄目だと言われるたびに、少しずつ、諦めました」
「はい」
「いま、また駄目だったら」
そこで止まった。
続きは言わなかった。言わなくても、わかる気がした。
期待しないほうが、痛くない。そういう覚え方をした人の声だった。
俺は火から目を離さずにいた。
しばらく、薪の鳴る音だけがしていた。外では、まだ同じ鳥が鳴いている。
「ひとつだけ、聞いていいですか」
「……はい」
「見るだけ、見せてもらえませんか」
「見る」
「はい。直すとは言ってません」
「……」
「数えるだけです」
返事は、すぐには来なかった。
やがて、布が動いた。手のひら一枚ぶん、こちらへ寄せられた。
「……見るだけなら」
「はい。見るだけです」
俺は戻って、また膝をついた。
欠片を一つずつ布の端へ寄せていく。声に出して数えた。数えると、間違えない。
「一。二。三」
「……」
「七。八」
「……何を」
「十四。十五」
シルフィは黙って見ている。
「二十二。二十三」
寄せながら、指先で重さを見ていた。
軽い。鉄ではない。銀でもない。手のひらに乗せると、金属というより乾いた木の実に近い重さだった。
最後の粉を寄せて、俺は手を止めた。
「二十三です」
「はい」
「あと、少し足りませんね」
シルフィの眉が動いた。
「足りない」
「はい。四つぶんくらい。あと、粉になったぶんも」
「……それは」
「森に残ってると思います。土の中とか」
「拾えません」
「ですよね」
俺は、あごを掻いた。
足りないぶんを、どこかから持ってこないといけない。
外を見た。戸の向こうに朝の庭がある。井戸の縁。崩れた石垣。土。
石は石だ。鉄は鉄だ。そのへんに落ちている物と大事な物とで、中身が違うわけではない。
足りないところに、足りるだけ入れればいい。
ちょうどいいのが、いくらでも転がっていた。
「じゃあ」
俺は顔を上げた。
「材料、そのへんの石でいいですか?」
「……は?」




