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第82話「水を買う町」

 門をくぐると、坂だった。まっすぐの坂ではない。折れながら、上へ続いている。


「上が、町ですか」


「上も、町でございます」


「下も、ですか」


「下も、町でございます」


「じゃあ、全部ですね」


「……さようでございます」


 石畳はすり減っていた。真ん中が窪んでいて、窪みの底だけが黒い。


「濡れてますね」


「こぼれた跡でございます」


「雨じゃなくて」


「水でございます」


「同じじゃないんですか」


「雨は、上から来ます」


「これは」


「下から、上がってまいります」


 俺は坂を見上げた。窪みは上まで続いていた。途切れていない。


「上町は、どのあたりですか」


「この下でございます」


「下」


「はい」


「じゃあ、上は」


「下町でございます」


「……逆じゃないですか」


「逆でございます」


「上にあるのに、下町ですか」


「水が来ぬほうを、下と申します」


 言い方が丁寧だった。丁寧なのに、こちらを見なかった。


 イレーヌさんは門のところで別れた。本部は坂の下にあるらしい。別れぎわに、一度だけ振り返った。


「ひとつ、伺っても」


「はい」


「この坂を、どう見ますか」


「石が、いいです」


「石」


「積み方が、丁寧です」


「……水は」


「これから見ます」


 その人はうなずいて、帳面を開いた。開いたまま、坂を下りていった。



 坂を、人が上ってくる。上ってくる人はみんな担いでいた。


 天秤の両端に桶が下がっている。


 肩の布がそこだけ厚い。厚いのは、擦れるからだ。


 擦れる場所は、みんな同じだった。


 子どももいた。子どもの桶は小さい。小さいが、数は同じだけ運ぶ。


「重そうですね」


「重うございます」


「井戸は、ないんですか」


「上町には、ございます」


「下町は」


「……ございません」


「掘れないんですか」


「掘りました」


「出ませんでしたか」


「出ませんでした」


「何本ですか」


「四十本と、聞いております」


 坂の途中で、水売りが足を止めた。年寄りの女の人だった。天秤を下ろして、肩を回している。


「一杯、銅貨五枚だよ」


「五枚」


「高いなら、買わなくていい」


「高すぎるニャ」


 ミオさんがそう言った。


「あんた、どこから来た」


「東」


「東は、水が只かい」


「只」


「そうかい」


 女の人はそれだけ言って、また肩を回した。回すたびに、骨が鳴った。



「あの」


「なんだい」


「その桶、箍が緩んでますね」


「緩んでるよ」


「直しますよ」


「いくらだい」


「いえ、いいです」


「いくらだいと、聞いてる」


「もらうほどのことじゃ、ないので」


 女の人の顔から、表情が消えた。消えたというより、閉じた。閉じ方が慣れていた。


「ただより高いもんはないんだ」


「高くないです」


「なんだって」


「箍が落ちたら、水がこぼれます」


「こぼれるね」


「こぼれた水は、坂を下ります」


「……下るよ」


「もう一度、上るのは大変です」


 女の人はしばらく黙って、天秤を地面へ置いた。置いた手を、腰の後ろへ回した。


 腰はまっすぐには伸びなかった。伸びない形で、止まっていた。


「ロッタだ」


「ルークです」


「触っていいよ」


「はい」


 箍は錆びて浮いていた。浮いた錆が、薄片になって落ちた。落ちた下から黒い鉄が出る。


 粒が互いを探しはじめた。探して、噛み合って、輪になった。


 輪が縮んで、樽板を締めた。


 板は痩せていた。痩せた繊維が、内から膨らんでいく。


 膨らんで、隙間が閉じた。


 閉じるとき、音がした。


 木が、木に当たる音だ。


「はい、いいですよ」


 ロッタさんは桶を持ち上げて、一歩下がった。


「あんた、何だい」


「町の修理屋です」


「町」


「はい」


「どこの町だ」


「オルトです」


「知らないね」


「小さいので」


「小さい町の修理屋が、なんで王城の使いを連れてる」


「ついてきてもらってます」


「……逆だろ」


「逆ですか」


「逆だよ」


 ロッタさんは桶を天秤に掛け直して、担いだ。


 担いだとき、水はまだ入っていない。空でも、肩は同じ位置に乗る。


「あんた」


「はい」


「その手で、うちの屋根は直せるかい」


「直せます」


「雨は、どうなる」


「雨は、直せません」


「そうかい」


「入るところを、塞ぐだけです」


「それでいいよ」


「はい」


 ダグさんが俺の横に立って、坂の上を見ていた。


「多いな」


「何がですか」


「壊れてるものだ」


「そうですね」


「一年いても、終わらん」


「終わらせに来たわけじゃないので」



 坂の上に店があった。樽が三つ並んでいるだけの店だ。


 樽の腹に線が引いてある。


 線から下は色が濃い。濃いところまでしか、入っていない。


 板に、値が書いてある。桶一杯、銅貨五枚。


 字は上から何度も書き直されていた。書き直した下に、古い数字が透けている。


 透けた数字は三だった。


 シルフィさんが、その板を見ていた。見て、動かない。


「シルフィさん」


「……はい」


「高いですか」


「パンが、二個買えます」


「二個半です」


「……はい」


「オルトは、只でしたね」


「只では、ございませんでした」


「え」


「汲みに行く者が、おりました」


「……そうですね」


 オルトの水は沢から汲んでいた。汲むのに、代金は要らない。


 只だったのではない。誰も、値をつけなかっただけだ。


 値がつくものと、つかないものがある。


 違いは、遠さだと思う。


 近いものに、値はつかない。遠くなると、運ぶ人が要る。運ぶ人には、暮らしがある。


 だから、五枚になる。高いとも、安いとも思わなかった。


 箍が緩んでいるほうが、気になった。


「ロッタさん」


「なんだい」


「上町も、五枚ですか」


「上町は、買わないよ」


「買わない」


「樋をひねりゃ出る」


「ひねると」


「出る」


「ここは」


「ここは、あたしの背中が水道だよ」


 俺はもう一度、坂を見た。窪みが、上まで続いている。あれは、桶が作った窪みだ。


 何十年ぶんかは、わからない。わからないが、一人ではない。


「あんた」


「はい」


 ロッタさんが低く言った。


「あんた、水を出せるのかい」


 答える前に、音がした。金物が、金物にこすれる音だ。


 揃った足音が上のほうで鳴っていた。


 坂の人が道の端へ寄った。寄り方が速い。桶を庇う寄り方だった。


 鎧の一団が折れ目の向こうから現れた。先頭の一人がこちらを見ている。


 下りてくる足が止まらなかった。

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