第79話「国で、いちばん」
霧が門の外に残っていた。残った霧は、日が当たると縮んだ。縮んで、道の窪みにだけ溜まった。
壁の新しい石に、露が乗っている。
昨日まで無かった壁に、今朝の露が乗っていた。露だけは、ふつうだった。
「並べ」
ハーグさんが言った。声が、かすれている。
「点呼」
名を一つずつ呼んだ。
番号ではない。
名前だった。
「ダグ」
「いる」
「ミオ」
「いる」
「ドルク」
「……いる」
「シルフィ殿」
「おります」
呼ばれた者が順に手を挙げた。挙がらない名が、二つあった。
二つとも、少し遅れて挙がった。挙げた腕に、布が巻いてある。
「……全員だ」
ハーグさんはそこで止まった。止まって、もう一度言った。
「全員いる」
誰も、声を上げなかった。
歓声というものを、俺は聞かなかった。
代わりに、みんな座った。坂の石畳に、そのまま座った。
座ってから、動かない。立っていられたのが、そこまでだったのだと思う。
俺の手はまだ震えていた。震えたままだと、細かいところができない。できないので、大きいところからやった。
「持ち主、いますか」
「寝てる」
「起きたら、これです」
「わかった」
「あと、この人の靴です」
「靴もか」
「底が減ってます」
「そりゃ、減るだろ」
「減ったまま歩くと、膝が壊れます」
「……直せよ」
「直します」
盾の縁を、三つ。斧の柄を、二つ。兜の庇を、一つ。
誰も番号を言わなかった。
女の人が門の内側に立っていた。いつから立っていたのかは、わからない。
外套の裾が濡れている。
濡れ方が、夜のあいだのものだった。
「ギルドマスター」
「……どなただ」
「本部の査察官です」
ハーグさんの背が少しだけ伸びた。
「いつ着かれた」
「一昨日の夜です」
「知らせは」
「出しませんでした」
「なぜだ」
「知らせると、片づけるので」
「……そうだな」
「宿は坂の上の二軒目です」
「埋まっていたはずだが」
「土間を借りました」
その人は、そこで一度息をついた。
「前夜から、全部見ていました」
「全部」
「門の内側におりました」
「危ないところだ」
「危なかったです」
「なぜ、下がらなかった」
「下がると、見えません」
シルフィさんがこちらを見た。見て、何も言わなかった。
「お伺いします」
「聞け」
「装備の損耗による依頼放棄が、半年間、一件もありません」
「そうか」
「そんな町はありません」
「あるだろう」
「ありません。十四年、見ています」
「見て、どうだった」
「昨夜、わかりました」
査察官は帳面をめくった。めくった先は、白紙だった。
「二冊目です」
「なんの話だ」
「わたしの持ち物の話です」
「わからんな」
「わからなくて、構いません」
その人が俺のところへ来て、しゃがんだ。しゃがむと、目の高さが同じになる。
「あなたが直しているのですか」
「はい」
「お名前を」
「ルークです」
「生業は」
「町の修理屋です」
「町の」
「はい」
「昨夜、壁が立ちましたが」
「立ちましたね」
「あれも、修理ですか」
「門を直しただけです」
「門が壁になりますか」
「もともと、続いてました」
その人はうなずいた。うなずいて、帳面に一行だけ書いた。何を書いたのかは、見えなかった。
「本部の裁定を伝えます」
声の高さが変わった。
ここから先は役目で喋るのだと、わかる変わり方だった。
「この支部の廃止は、取り下げます」
「……そうか」
「格を、改めます」
布に包んだものが卓へ置かれた。金属の音がした。
包みを開くと、札が出た。
白い色をしている。銀ではない。
銀より、重い色だった。
「掛けてください」
「どこへだ」
「もとの場所へ」
壁に四角い跡が残っている。長いあいだ、何かが掛かっていた跡だ。
釘の穴が、四つ。
札の穴も、四つだった。
合った。
「これは」
「これより上は、ありません」
「上が、無い」
「この国に、ありません」
誰も、手を叩かなかった。
座り込んだ人たちが壁を見ただけだった。
ハーグさんは札の下に立っていた。
立って、しばらく動かなかった。それから、椅子に座った。
直した椅子だ。
座って、両手で顔を覆った。覆った指の間から、水が落ちた。落ちて、帳簿の上に点をつくった。
「わしは」
「はい」
「わしは、椅子を守っただけだ」
「椅子、いい椅子でしたよ」
「……そうか」
「はい。脚が、まだ持ちます」
ハーグさんは笑おうとした。笑えなかった。
「もう一つ、申し上げます」
査察官がそう言った。
「言え」
「この方を、本部へ」
部屋が静かになった。
「王都には、直せないものが多くあります」
「あるだろうな」
「順に回っていただきたい」
「回る」
「人と、馬車と、紙は、こちらで用意します」
悪い話ではなかった。むしろ、よくできた話だと思った。直すものが並んでいるのは、ありがたい。
「待て」
ハーグさんが遮った。
「……はい」
「この人を、道具にするな」
言い方は大きくなかった。大きくないのに、二階まで届いた。
「道具にするつもりは、ありません」
「そう言う者がいちばんそうする」
「……」
「わしも、そうしかけた」
「いつです」
「毎日だ」
ハーグさんは帳簿を閉じた。
「この人は、頼めば来る」
「はい」
「だから、頼め」
「頼みます」
「命じるな」
「命じません」
「順に回せと、決めるな」
「……決めません」
査察官は帳面を閉じて、頭を下げた。下げた角度が、深かった。
「では、こう書きます」
「どう書く」
「頼んだ、と」
俺はその横で靴を直していた。底が、厚みを取り戻したところだった。
「あの」
「はい」
「一つ、いいですか」
「どうぞ」
「下を見てきていいですか」
「下」
「門の下です」
昨日、石が立ち上がったところだ。立ち上がった以上、下に何かある。あるなら、見ておきたかった。
「ルーク様、危のうございます」
「見るだけです」
「では、灯りを」
シルフィさんが、灯りを持ってついてきた。
門の内側の脇に石段が出ていた。昨日まで、土に埋まっていた段だ。
十四段、下りた。数えたのは、癖だ。
下は狭かった。
天井が低い。
背を丸めないと、進めない。
突き当たりに、大きな石が一つ据わっていた。
両脇の石が、その石に噛んで止まっている。
抜けたら、全部が落ちる石だ。
俺は面の土を払った。払った下に、線があった。
小さな、刻みだった。




