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第72話「【幕間】出ていく背中」

 宿の朝は床の軋みから始まる。階下で桶が鳴り、それから水を汲む音がした。


 ドルクは目を開けて、しばらく天井を見ていた。


 脇腹は痛まないが、押すとへこむ。色は腕と同じだった。


 黒かったところに、何も残っていない。跡さえない。


 跡がないというのは、落ち着かないものだった。あれだけのことがあって、そこに何もない。


 ドルクは同じ場所を三度押した。三度とも、痛まなかった。


 押しながら、壁を見た。湿った板だ。三日前に転がり込んだ夜も、同じ匂いがしていた。


 盾は壁に立てかけてあった。


 持ち上げて腕を通す。革紐は垂れていない。留め金が、二つとも座に噛んでいる。


 軽かった。厚みは同じだ。木も、鉄も、前のままだ。それでも、軽い。


 ドルクは頭が良くない。自分でもそう思っている。


 十年、何も分かっていなかった。今も、分かっていない。


 分かるのは、盾が軽いということだけだった。


「起きたか」


「起きた」


「腹は」


「なんともねえ」


「そうか」


「飯は」


「食った」


「俺の分は」


「卓にある」


「値切ったのか」


「言い値だ」


「言い値かよ」


「金は、ある」


「昨日は無かったろ」


「昨日は昨日だ」


 ドルクはパンを取った。硬くない。焼いた日のものだった。


 ガイルは荷をまとめていた。


 まとめると言っても、大したものはない。外套と、水の革袋と、火打ちの道具。それで終わりだった。


 寝台の脚の下から、折った紙が出ている。短い脚に噛ませてあったものだ。


 団の綴りから抜いた紙だった。何が書いてあったかは、二人とも見ていない。


 ガイルはそれを抜いた。抜いて、伸ばさずに懐へ入れた。


「その剣、直ってんな」


「ああ」


「いつだ」


「昨日の夜だ」


「頼んだのか」


「置いた」


「置いた、って」


「卓に置いて、これも、と言った」


「それだけか」


「それだけだ」


「……そうかい」


 ドルクは笑わなかった。笑うところではない。


 頼む、という言葉を、この男は一度しか使わなかった。使ったのは、床に額をつけたときだ。


 あれで使い切ったのだと思う。


 鞘は腰の反対側に下げたままだった。中身は、二つに分かれている。


 ガイルは、それを卓に出さなかった。出さなかった理由を、ドルクは聞かない。


「ガイル」


「なんだ」


「俺、ここに残る」


 ガイルの手が止まった。止まって、また動いた。革袋の口を、締めている。


「……そうか」


「それだけか」


「ほかに何がある」


「怒らねえのか」


「怒る理由がない」


「そうかい」


 ドルクは言葉を探した。探したが、うまいのは出てこない。


「俺、下からやり直す」


「下」


「いちばん下の級だ。名簿に、書いてもらう」


「誰に頼んだ」


「受付の耳の長い人だ」


「……そうか」


「明日、書くってさ」


「書いてもらって、どうする」


「並ぶ」


「お前は盾役だ」


「盾役だった」


「今もだ」


「今は、下からだ」


「……」


「ここ、番号で回ってんだ」


「知っている」


「強いやつが先じゃねえ。来た順だ」


「知っている」


「俺、番号を呼ぶほうからやる」


「呼ぶだけか」


「頭は良くねえけど、声はでかい」


 ガイルは荷を肩へ掛けた。掛けて、扉のところで立った。


「好きにしろ」


「ああ」


「傷を、開くな」


「もう無えって」


「開くと言っている」


「……ああ」


 開く傷がもう無いことは、この男も知っている。


 知っていて、そう言った。ほかに言う言葉を、持っていないのだ。


 ドルクはそのことに気づいた。気づいたのが十年遅い、とは思わなかった。


 思うほど、頭が良くない。



 門は朝に開く。


 開くとき、二枚の音が揃った。片方だけが遅れることはない。蝶番が、二つとも同じ厚みで回っている。


 門番は閂の座を指で確かめていた。閉まる門を持つのは、この町では新しいことだった。


 ドルクは、門の内側までついていった。それより先へは、行かなかった。


 ガイルの背に、荷はほとんどない。


 外套の裾に、繕った跡が二箇所ある。粗い縫い目だ。


 直してもらうことも、できたはずだった。頼めば、五分だったろう。


 頼まなかった。


 街道は、乾いていた。土が細かく、足跡がすぐに崩れる。三歩で、もう形が分からなくなる。


「なあ」


 ドルクは、その背中に言った。


「俺たち、どうすればよかったんだ」


 ガイルは答えなかった。


 答えずに歩いた。歩幅はいつもと同じだった。速くも遅くもならない。


 ドルクは、もう一度言おうとしてやめた。


 二度言っても、同じだと分かったからだ。分かることが少しずつ増えている。


 街道の先は、ゆるく折れていた。折れたところに、枯れた木が一本立っている。


 ガイルは、その手前で一度だけ肩を上げた。荷の紐が、鎖骨に当たったのだろう。


 紐を直せば当たらない。ドルクは、そう思った。


 思ってから、自分で驚いた。前は、そんなことを思わなかった。


「おい」


 門番がうしろから声をかけた。


「連れは、いいのか」


「いい」


「追わねえのか」


「追わねえ」


「どこへ行くんだ、あれは」


「知らねえ」


「連れじゃねえのか」


「連れ、だった」


「……そうかい」


 荷車が門をくぐってきた。市へ出す菜が積んである。


 車輪が通ると、街道の土が舞った。舞って、下りた。下りたところに、足跡はもうなかった。


 ドルクはそれをしばらく見ていた。見ても、何も出てこなかった。盾を背へ回して、坂を上っていった。


 上りながら、腕の内側を触った。留め金の座が、当たっている。


 当たる場所は、前と同じだ。痛くはない。



 ガイルは振り返らなかった。


 振り返らないまま、下りきった。誰もついてこない。置いていったのではない。連れていく者が、いなかった。


 腰の剣は、直っている。根元から指三本のところの欠けが、消えていた。


 柄を握ると長さが手に戻ってくる。十年、この長さで生きてきた。


 途中で荷車とすれ違った。御者が軽く会釈をした。


 ガイルは返さなかった。返し方を忘れている。


 忘れたのはいつかを、思い出そうとした。思い出せなかった。


 考えていたのは、一つだけだった。


 あの職人は、俺を恨んでいない。


 ——それが、どうしても、許せない。

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