第70話「土下座」
ドルクさんが床にいた。寝台から、這い出してきていた。
包帯は巻いたままだ。
巻いたところに、埃がついている。床を引きずってきた埃だった。
両手が床についている。その手の先へ、額が下りた。
音は、しなかった。
ダグさんが動いて、途中で止まった。
止めるつもりで出した手を、下ろした。
この人は止めない側の人だ。
「おい」
ガイルさんがそう言った。
「起きるな」
「……」
「寝てろ」
「……」
「聞こえているのか」
「聞こえてる」
「なら、戻れ」
「戻らねえ」
「傷が開く」
「開かねえよ」
「開くと言っている」
「もう、ねえんだ」
「何がだ」
「傷が、ねえ」
「……」
「触ってみろよ」
「触らん」
「だろうな」
ドルクさんは答えなかった。答えずに、額をつけたまま言った。
「頼む」
「……」
「ガイルを、助けてやってくれ」
部屋の音が、消えた。
俺はしゃがんだ。しゃがんで、その人の顔の高さに合わせた。
「あの」
「……」
「ドルクさんは、もう直りましたよ」
「俺じゃねえ」
「はい」
「俺じゃ、ねえんだ」
「はい」
「あいつだ」
「ガイルさんですか」
「そうだ」
「……どこか、壊れてますか」
「わかんねえ」
「わからないですか」
「わかんねえけど、壊れてる」
「どのへんですか」
「わかんねえって」
「音とか、しますか」
「音」
「壊れてるものは、だいたい音が変わるので」
「……変わってる」
「そうですか」
「昔は、もっと通る声だった」
「はい」
「今は、届いてねえ」
「誰にですか」
「誰にもだ」
俺は少し考えた。
考えたが、どこが壊れているのかは見えなかった。
外套の裾が擦り切れている。繕った跡が、二箇所。
靴の底が、右だけ減っている。剣は、折れている。
どれも、直せるものだ。
「俺は、盾しか持ってねえ」
「はい」
「その盾も、飛んだ」
「はい」
「飛んだのは、俺のせいだ」
「留め金ですよ」
「……」
「留め金がないと、外れます。腕から」
「……そうか」
「はい」
ドルクさんは額をつけたまま動かなかった。
「あいつ、言えねえんだ」
「はい」
「頼むってのが、言えねえ」
「はい」
「十年、言わなかった」
「そうですね」
「だから、俺が言う」
「はい」
「頼む」
「……はい」
「受けてくれんのか」
「まだ、何を直すか聞いてないです」
「それでもだ」
「聞いてからでいいですか」
「……ああ」
「はい」
ガイルさんが口を開いた。
「ドルク」
「……」
「やめろ」
「……」
「やめろと、言っている」
ドルクさんは動かなかった。動かないので、それきりだった。
誰も、動かなかった。
卓は五つとも埋まっている。埋まっている人たちがこちらを見て、誰も何も言わない。
外の列も静かだった。
番号を呼ぶ声が、止まっている。
ミオさんが扉のところで立ったままだ。紙を持ったままだった。
シルフィさんは受付にいた。番号札に、手を置いている。置いたまま、動かさない。
ハーグさんは帳簿を閉じていた。閉じて、指を上に載せていた。
扉は開いたままだった。
開いた先に、掲示板が見える。紙が、六枚貼ってある。
風が、来た。いちばん端の一枚が、鳴った。それだけの音だった。
鳴って、また静かになった。
静かというのは、何もない状態ではない。みんなが次の音を待っている状態だ。
待っているあいだ、灯りの芯が細く鳴っていた。
ガイルさんが、動いた。
外套の裾を片手で払った。払ってから、膝を折った。
膝が床に当たった。音が、二つした。左と右だ。
それから、両手が下りた。手のひらが床についた。その音が、いちばん大きかった。
背が丸くなって、額が下りていく。
途中で、止まらなかった。額が、床についた。
「……頼む」
一言。それだけだった。
誰も息をしなかった。卓の人も、扉の人も、坂の下の人も、何も言わない。
言わないまま、時間だけが動いた。
俺はその人を見ていた。背中の、繕った跡を見ていた。
縫い目が粗い。自分で縫った縫い目だ。誰かに頼めば、もっときれいになる。頼まなかったのだと思う。
俺はしゃがんだままだった。
しゃがんだまま、少し困った。困ったので、思ったことを言った。
「あの、床、冷たいですよ」
返事はなかった。
「そこ、石なんです」
「……」
「夜のあいだ、ずっと冷えてます」
「……」
「膝、痛くなりますよ」
「……」
「ガイルさん」
「……」
「聞こえてますか」
「……」
「聞こえてるなら、いいです」
「……」
「頭を上げてください」
「……」
上がらなかった。
俺は待った。待ってから、もう一度言った。
「上げてくれないと、話が進まないです」
「……」
「壊れてるなら、直しますよ」
「……」
「最初から、そう言ってるんです」
ガイルさんの背中が止まった。止まって、それから、上がった。
顔が、上がった。
目が、合った。
その人は俺を見た。見て、口を開けた。
開けて、何も言わなかった。
もう一度、見た。
探している目だった。昨日と、同じ目だ。
何を探しているのかは、やっぱりわからなかった。
見つからなかったらしい。見つからないまま、肩が落ちた。
落ちたところで、その人は目を伏せた。
伏せた先に、床がある。床には何もない。
ドルクさんが顔を上げて、隣を見た。
「ガイル」
「……」
「言えたじゃねえか」
「……」
「な」
「……」
ガイルさんは答えなかった。答えないまま、床に手をついていた。
ついた手を引かなかった。引き方が、わからないのだと思う。
ミオさんが俺の袖を掴んだ。掴んで、何も言わなかった。
シルフィさんは番号札から手を離して、次の番号を並べ直した。
並べる音が、小さかった。
俺は立ち上がって、道具袋を掛け直した。
床の盾を見た。留め金が、片方ない。革紐が、垂れている。
紐は、切れていない。結び目が、ほどけただけだ。
ほどけたものは、結び直せば元に戻る。留め金は、そうはいかない。
無いものは、無いところから戻す。
昨日、この盾を直しましょうかと聞いた。十年前にも、同じことを聞いた。
二度とも、いらないと言われた。
三度目は、言われていない。
言われていないなら、やっていいのだと思う。
俺は、手を出した。
「じゃあ、盾から」




