第68話「頭を上げてください」
その夜は、灯りが二つだった。卓の上に一つ。受付に一つ。
シルフィさんが明日の番号札を数えていた。
ミオさんは箒を持ったまま椅子で寝ている。
ダグさんは扉の内側に座っていた。先に立ち上がった。
「来る」
「え」
「走ってる音だ」
「聞こえないです」
「二人ぶんだ」
少しして、俺にも聞こえた。
足音ではない。引きずる音だった。
扉が開いた。開いたというより、体で押された。
男が入ってきた。背中に、もう一人いる。
背負っているほうが、膝から先に落ちた。落ちながら、腕を回していた。
背中の人を床へ置く形になった。置いてから、自分が横へ倒れた。
フードは途中で脱げたらしい。
ガイルさんだった。
「ハーグ」
「……おい」
「治癒師を呼べ」
「呼ぶ」
「早くしろ」
「呼ぶと言った」
ミオさんがもう走っていた。
箒が床に落ち、落ちた音だけが、あとに残った。
寝かされたのは、ドルクさんだった。
脇腹を手で押さえている。押さえた指の間から、布が見えた。
自分の外套を裂いて、当てたらしい。裂き方がまっすぐではない。
走りながら、片手で裂いたのだと思う。
「先生、連れてきたニャ」
「速いですね」
「坂、下りたところ」
「ありがとうございます」
「礼はいいニャ」
治癒師の人はすぐ来た。年をとった女の人だ。
息が上がっていた。上がったまま、床へ膝をついた。
「灯りを、近く」
「はい」
「もっと」
「はい」
シルフィさんが灯りを持った。持って、何も言わなかった。
治癒師の人は布をめくって、手を止めた。
「これは」
「毒です」
俺はそう言った。
「あんた、見えるのかい」
「はい」
「……そうかい」
その人は両手を傷の上に置いて、目を閉じた。
しばらく、そのままだった。
手のひらの下が白くなって、すぐ戻った。
「届かん」
「先生」
「毒が、違う」
「治せないのか」
「わたしの術では、届かん」
「別の術者はどこだ」
「この町にはおらん」
「王都なら」
「四日だ」
「四日か」
「四日は、もたん」
「どれだけだ」
「今夜だ」
「今夜か」
「明け方までは、たぶん」
「たぶんとは、なんだ」
「見たことのない毒だからだ」
ガイルさんは立ち上がって、財布を出した。
卓に置いた。
「金は払う」
「そういう話ではない」
「治せ」
「治せんと言った」
「いくらだ」
「聞いておらんのか」
治癒師の人は手を引いた。引いて、膝をついたまま頭を下げた。
「すまんね」
ガイルさんは動かなかった。
命じる言葉が、まだ口の形で残ったまま、行き先がなくなっていた。
俺は、さっきからそこに座っていた。治癒師の人が来る前から、座っている。
ドルクさんの、反対の側だ。
膝を折って、傷の縁を見ていた。黒は腰まで来ていた。縁がぼやけている。境目のところが灰色だ。
その先の皮膚が、乾いた木の色になっていた。
「あ、これ」
「なんだ」
「見たことあります」
ガイルさんがこちらを見た。初めて、こちらを見た。
「見たこと、だと」
「はい」
「同じものか」
「同じです。もっとひどいのを、一度」
「……治ったのか」
「治ってないです」
「なに」
「直りました」
ガイルさんは、何も言わなかった。
言わないので、俺は手を出した。
「ドルクさん」
「……」
「聞こえますか」
「……あぁ」
「直していいですか」
「……好きに、しろ」
「はい。じゃあ、直します」
俺は傷の縁に指を置いた。
「痛かったら、言ってください」
「……」
「痛くないと思いますけど」
「おい」
「はい」
「何をする気だ」
「直します」
「人をか」
「はい」
「できるのか」
「一度、やりました」
「……」
「本人に聞きましたので」
シルフィさんが灯りを寄せてから、一歩下がった。下がった位置から、動かなかった。
この人はまだ怒っている。怒っていても、灯りは寄せる人だ。
黒が先に退いた。
縁のほうから、順に退いていく。灰色だったところが、境目をなくした。
乾いた木の色が薄くなった。薄くなって、下から色が上がってきた。
桜の、内側の色だ。
血の道が、根のように通っていった。細いのが先で、太いのが後だった。
通ったところが汗をかき始めた。押すと、へこむようになった。最後に、裂け目が閉じた。
閉じ目に、糸のような線が残った。その線も、すぐ消えた。
「はい、いいですよ」
俺は手を離した。
思ったより、短かった。シルフィさんのときは、日が暮れた。今回は灯りの油が減っていない。
「……なんだ、これは」
治癒師の人がそう言った。
「直しました」
「直した」
「はい」
「毒は」
「毒は、抜いてないです」
「抜いておらんのか」
「毒が入る前に、戻しただけです」
「……戻す」
「はい」
その人は床に座り込んだ。座り込んで、自分の手を見ていた。見て、それから、俺の手を見た。
「あんた、名は」
「ルークです」
「何屋だい」
「町の修理屋です」
治癒師の人は笑わなかった。笑わずに、もう一度、俺の手を見た。
ドルクさんが目を開けて、天井を見た。
しばらく、そのままだった。それから、顔を横へ向けた。
ガイルさんが、そこにいた。
「……よお」
「ドルク」
「痛くねえ」
「そうか」
「なんで痛くねえんだ」
「……」
ドルクさんは体を起こそうとした。
起こせた。起こせたことに、自分で驚いていた。
腹を手で押さえた。押さえて、押さえたところを見た。それから、反対側を見た。
俺が、そこにいた。
「あんた」
「はい」
「……あんた、うちの」
「はい」
ドルクさんは口を開けた。開けて、閉じた。
もう一度、腹を見た。見て、俺を見た。顔が、崩れた。
「なんで」
「はい」
「なんで、あんたが」
「近くにいたので」
「そうじゃねえよ」
「はい」
「そうじゃ、ねえだろ」
ドルクさんは両手で顔を覆った。覆って、そのまま前へ倒れた。
倒れた先が、床だった。声は出ていなかった。肩だけが、動いていた。
ガイルさんは立っていた。
膝は、つかなかった。立ったまま、その背中を見ていた。
俺は道具袋を膝に置いた。置いてから、床の盾を見た。
背負ってきた、あの盾だ。留め金が、片方ない。革紐が、垂れている。紐は、切れていなかった。
「ガイルさん」
「……なんだ」
「あと、盾も直しましょうか」
「……いらん」




