第67話「【幕間】留め金」
道は思っていたより広かった。
石を敷いた、荷車の通る道だ。両側に草が伸びている。伸びているというより、そこで止まっていた。背丈がみんな同じだった。
「歩きやすいな」
「ああ」
「坑口までは、どれくらいだ」
「票には、半日と書いてある」
「半日か」
「下って、また下るらしい」
「帰りは上りかよ」
「そうなる」
「こんな道がなんで閉じてる」
「知らん」
「十年、誰も通ってねえんだろ」
「札には、そう書いてあった」
「草、踏まれてねえもんな」
「そうだな」
ドルクは前を歩いていた。盾は、まだ背中にある。
背負い方が少し傾いている。革紐で縛った側を、上にしているからだ。上にしておくと、紐に体の重さがかからない。
三月、その背負い方だった。
途中に荷車が横倒しになっていた。車輪の鉄輪に、錆がない。
「なあ、ガイル」
「なんだ」
「この鉄、錆びてねえ」
「見ればわかる」
「油も塗ってねえぞ」
「わかる」
「じゃあ、なんでだ」
「歩け」
「歩くけどさ」
縄が荷から垂れていた。朽ちていない。朽ちていないが、新しくもない。撚りが、そのまま止まっている。
ガイルはそれを見た。見て、通り過ぎた。
考える材料が足りないときは、通り過ぎるのが正しい。十年、そうやって北へも南へも入ってきた。
音がしなかった。鳥も、虫も、風もない。足音だけが、道の先まで届いて戻ってくる。
「暗くなってきたな」
「まだ昼だ」
「昼か」
「昼だ」
「……そうかい」
空は明るかった。明るいのに、影の輪郭が薄い。
ドルクが盾を下ろして、腕を通した。
通すとき、位置を直した。結び目が当たる場所を、いつものように内側へ回す。
回してから、もう一度、回し直した。
「きついのか」
「きつくねえ」
「なら、行くぞ」
「ああ」
「ガイル」
「見えている」
道の先に、いた。
人の形をしていた。人の形をして、顔がなかった。
数は三つ。上の岩棚に、もう二つ。
「五つだぞ」
「数えている」
「多くねえか」
「多い」
「戻るか」
「札を持ってきた」
「そうだったな」
ガイルは剣を抜いて、その重さを腕で受けた。
買ったばかりの中古の剣だ。銀貨二枚のものは、銀貨二枚の重さをしている。
根元から指三本のところに、刃こぼれがあった。買ったときから、そこにある。
聖剣は腰の反対側にあった。鞘ごと下げてきて、一度も抜いていない。
「ガイル、下がれ!」
ドルクが前へ出た。
出て、盾を構えた。腰を落とし、左肩を入れる。十年、同じ形だ。この形で、この男は一度も退がったことがない。
ぶつかった。留め金が、抜けた。
革紐が結び目のところで滑った。二重に回した紐が、するりとほどけた。腕の内で、輪が広がった。
盾が腕から飛んだ。岩に当たって、かん、と鳴った。
ガイルはその音を知っていた。どこで聞いたかを思い出す前に、ドルクが倒れていた。
盾のない左側がそのまま開いていた。開いたところへ、影が入った。
ガイルは前へ出たが、半歩遅かった。
ドルクは脇腹を押さえていた。
傷は浅い。指の腹ほどの裂け目だ。血は、ほとんど出ていない。
その縁が、黒かった。
黒は内側から広がっていた。皮膚の色が抜けて、乾いた木の色へ変わっていく。
変わったところは、汗をかかない。押しても、へこまない。へこまないものが、人の腹についていた。
「……いてえ」
「動くな」
「盾が」
「いい」
「拾ってくれ」
「動くなと言った」
ガイルは剣を振った。振ったところで、折れた。
刃こぼれの根元からだ。飛んだ刃が、道の石に落ちて跳ねた。
柄だけが手に残った。
残ったものを、ガイルは見た。見て、握り直した。
握り直しても、長さは戻らない。
腰の反対側の鞘には、手が伸びなかった。
十年、欠けない剣を持っていた。欠けないものだと聞かされていた。加護がある、とも聞いた。
加護の話をした男は、もう来ない。
黒い霧が道を塞いでいた。塞いで、そのあと、崩れた。
崩れた霧は地面へ落ちる前に消えた。何が起きたのかは、ガイルにもわからなかった。
わからないまま、道が空いた。
ガイルは膝をついた。
「歩けるか」
「歩ける」
「立て」
「……立つ」
ドルクは立てなかった。
脇腹の黒は、腰まで来ていた。押さえた指の下で、皮膚が硬くなっている。触ると、木を触っているのと変わらない。
「ガイル」
「なんだ」
「これ、なんだ」
「知らん」
「毒か」
「知らん」
「治癒師で、治るか」
「治る」
「そうか」
「町まで運ぶ」
「二日だろ」
「一日半だ」
「無理だな」
「無理じゃない」
「金は」
「札がある」
「受けてねえのに、金は出ねえよ」
「出させる」
「……そうかい」
治るかどうかを、ガイルは知らない。知らずに、治ると言った。ほかに言える言葉が一つも出てこなかった。
助けを呼ぶ言葉を、この男は持っていない。十年、呼ばれる側だったからだ。
ガイルはドルクの腕を肩へ回して、立ち上がった。
重かった。重さは、覚えのあるものだった。この男を担いだのは、初めてではない。
「盾」
「置いていく」
「拾ってくれ」
「二つは持てん」
「頼む」
「なぜだ」
「あれ、まだ使える」
「使えん」
「使えるって」
「留め金がない」
「……縛れば、いけるだろ」
「いかなかっただろう」
「……そうだったな」
ガイルは戻って、片手で盾を拾った。留め金のない側の革紐が、切れずに垂れている。
切れてはいなかった。ほどけただけだ。
結び目を見た。
結び方は丁寧だった。二重に回して、端を内へ折り込んである。素人の結びではない。
それでも、ほどけるものはほどける。留め金の代わりになるものは、この世に一つもない。
ガイルはそのまま盾を背負った。
柵をまたいだ。またぐとき、ドルクの足が柵に当たった。
当たっても、ドルクは何も言わなかった。
道は、下りだ。
下りきったところに、街道がある。街道を折れて、南へ二日。
二日では、間に合わない。
ガイルは走り出した。
走りながら、何も考えていなかった。背中の男の息が、耳のうしろに当たっている。その間隔だけを数えていた。
数えるのをやめると、速くなる。速くなると、間隔が開く。
考えていたのは、一つだけだ。あの町のギルドには、朝から人が並ぶという。
並ぶ理由を、ガイルはまだ知らない。




