第66話「【幕間】残ったもの」
宿は街道沿いでいちばん安いところだった。部屋は、一つしか取っていない。
寝台が二つ、壁に寄せてある。片方は脚が一本短くて、その下に折った紙が噛ませてあった。
紙は宿のものではない。団の綴りから抜いた紙だ。何が書いてあったかは、折ったときに確かめていない。
壁は湿っていた。触ると指に匂いが残る。窓の下だけ、板の色が濃い。
「なあ」
ドルクが天井を見たまま言った。
「飯、どうする」
「……好きにしろ」
「金は」
「あるだろう」
「ねえよ」
「昨日、あっただろう」
「昨日は昨日だ」
「何に使った」
「宿代の内金だ」
「いくら入れた」
「全部だ」
「全部か」
「全部だ」
ガイルは答える気をなくした。
「なら、抜け」
「抜くと、明日がきつい」
「なら、食え」
「だから、金がねえって話をしてる」
窓の外は、まだ明るい。この町は日が落ちるのが遅い。
ドルクはしばらく待って、起き上がった。起き上がるとき、寝台が鳴った。
「じゃ、買ってくる」
「金はないんだろう」
「値切る」
「値切れるのか」
「顔は覚えられてる」
「……そうか」
「二つでいいか」
「一つでいい」
「二つ買う」
ドルクは出ていった。扉は、閉めていかなかった。
閉めない男だ。十年、一度も閉めたことがない。以前は後ろを歩く誰かが閉めていた。
部屋にガイルだけが残った。
壁に剣が立てかけてある。鞘は王家から下されたものだ。金具に獅子が彫ってあって、彫りの溝に埃が入っていた。
ガイルはそれを抜かない。三月、抜いていない。
抜けば、折れているのが見える。鞘の中で刃は二つになっている。柄を握れば、重さでわかった。
わかるが、見なければ、誰にも知られない。
神官は来なくなった。月に一度、聖剣を検分する男だった。悪い男ではない。傷まないと決まっているものを、その男は十年、傷まないと言い続けただけだ。
最後に来た日、その男は鞘に手をかけなかった。かけずに、帳面へ何かを書いて帰った。書いたものは見せてもらえなかった。
床に書付が落ちている。
封は切っていない。蝋に後援の家の紋が押してある。鳥と麦の穂だ。
十年、その紋を背負って歩いた。旗にも、天幕にも、同じ鳥が入っていた。旗は売った。
落ちてから、四日たつ。拾わないので、踏んだ跡がついていた。跡は、ガイルの靴のものだった。
ガイルは、間違ったとは思っていない。
北へ入るのに、人数を絞った。補給の利かない道だった。戦えない者を連れていく余裕はなかった。
あれは正しい判断だった。今も、正しいと思っている。
合わなかったのは、そのあとの数だ。装備の費えが読みより速く伸びた。伸びた分を、稼ぎで埋められなかった。埋められないうちに、格が下がった。
計算が違っていた。
違っていたのは、計算のほうだ。腕ではない。判断でもない。数の読みを、どこかで一つ落としただけである。
落としたのがどの数かは、まだ見つかっていない。
修繕の男の名を、一度だけ思い出した。
ルーク。
脱退の届けに名を書かせた。あの紙は団の綴りに残っている。残っているはずだった。
綴りは宿の主人が持っていった。三月ぶんの宿代の、形としてだ。
ドルクが戻ってきた。パンを二つ持っていた。一つを、ガイルの寝台へ置いた。
「安いほう買った」
「そうか」
「昨日のだと」
「食える」
「食えるよ」
「なら、いい」
「明日、行くのか」
「行く」
「北の道な」
「ああ」
「戻った奴がいねえって話だぞ」
「聞いた」
「割はいいんだよな」
「金貨で六枚だ」
「六枚か」
「宿代が、三月ぶん残ってる」
「……そうだったな」
「戻ったら、二枚で剣を買い直す」
「今の、どうすんだ」
「今のは昨日買った」
「あの安いやつか」
「銀貨で、二枚だ」
「それでか」
「それでだ」
「道理で、飯の金がねえわけだ」
「文句か」
「文句じゃねえよ」
昨日買った剣は、壁の同じところに立てかけてあった。鞘は革を巻いただけの安物だ。
獅子の鞘と並んでいる。並べると、長さは同じだった。
ドルクは床に座った。座って、盾を膝に載せた。
盾は古い。縁が二箇所へこんでいる。表の塗りは剥げていた。
留め金が片方だけない。ない側は革紐で縛ってある。二重に回して、結んである。
結び目が内側に来ていた。腕を通すと、そこが当たる。当たるので、ドルクは通すたびに位置を直す。
ガイルはその手元を見ない。見ないようにしている、とは思っていない。ただ、目がそこへ行かない。
ドルクの左の肘に、擦れた痕がある。革紐の結び目の当たるところだ。痕は、色が変わるところまで来ていた。
治す道具はない。買う金もない。だから、話に出ない。
その盾は十年前からある。一度、柱まで転がったことがあった。
かん、と鳴った。
鳴った日のことは、思い出さなかった。
「なあ、ガイル」
「なんだ」
「これ、新しいの買わねえの」
「盾は後だ」
「先じゃねえの」
「先は剣だ」
「そうかい」
「不服か」
「不服じゃねえよ」
「なら、黙れ」
「黙るけどさ」
「なんだ」
「俺、なんで残ったと思う」
「知らん」
「聞けよ」
「興味がない」
「……そうかい」
ドルクが残った理由を、ガイルは一度だけ考えたことがある。
何も考えていないからだ、と結論した。
それで、済んだ。済んだので、その先は考えていない。
パンは硬かった。二人とも、水で流し込んだ。水は宿の桶のものだ。
朝は霧だった。
二人は北の門を出た。街道を途中で折れる。折れた先の道は細い。
石を敷いた道が、やがて土になった。土は赤い。歩くと、靴の縁に上がってくる。
鳥の声が、途中から聞こえなくなった。ガイルは、聞こえないことに気づかなかった。
柵が二重に組んであった。組んだ木が白い。十年、雨に打たれた木の色ではない。
札が柵に下がっている。字が消えていない。掛けた紐だけが、真新しい色をしていた。
霧は柵の向こうで止まっていた。こちら側にだけ、流れている。
「読めるか」
「読める」
「なんて書いてある」
「立ち入るな、だ」
「そうか」
「新しい札だな」
「十年前のだ」
「見えねえよ、そうは」
「そう書いてある」
「……そうかい」
「行くぞ」
「なあ」
「なんだ」
「戻れなかったら、どうする」
「戻る」
「そうじゃなくてだな」
「戻ると言った」
「……だよな」
ガイルは柵をまたいだ。ドルクが、続いた。
またぐとき、盾の革紐が腕の内で鳴った。
二人は、鉱山道へ入っていった。




