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第62話「灰は覚えている」

 窓の掛け金が外れていた。壊れてはいない。


 外から棒を差して、上げただけだ。跡が桟に一本残っている。鍵はかかったままだった。


「盗みだ」


「盗みだな」


「代官所へ出す」


「出しても、動かん」


 ダグさんが、そう言った。


 ハーグさんは答えなかった。答えずに、空の棚を見ていた。


 朝の光が、そこへ入っていた。


 棚板に四角い跡がある。厚い革の表紙が、十年置かれていた跡だ。その内側だけ、埃がない。


「ハーグさん」


「なんだ」


「筒は、どこにありましたか」


「同じ棚だ」


「封蝋、割れてませんでしたね」


「割れとらん」


「じゃあ、まだ開いてないです」


「開いてなくても、無い」


「はい」


「ねえ」


「はい」


「窓、直す?」


「掛け金は壊れてないです」


「じゃあ直せないの」


「直すところが、ないんです」


「役に立たないニャ」


「そうですね」


 通りから人が入ってきた。肉屋の主人だった。息が上がっている。


「裏の空き地で、夜通し火が焚かれてた」


「誰がだ」


「商会の者だ」


「見たのか」


「見た。三人いた」


 ダグさんが先に出た。



 空き地は商会の裏にあった。石を組んだ、焼き穴がある。塵を焼くための穴だ。


 中はまだ温かかった。白い灰が、縁まで積んでいる。


 灰の上に、革の留め具が二つ落ちていた。焦げて、丸くなっている。


 ミオさんがそれを拾った。拾って、握った。握った手が震えていた。


「元帳の留め具だ」


 ハーグさんが、そう言った。声が低かった。


 商会の裏口が開いた。出てきたのは、レンツさんだった。


 外套の裾に灰はついていない。


「おはようございます」


「これは、なんだ」


「塵を焼かせました」


「わしのだぞ」


「塵に名は書いてございません」


「書いてある。革に焼き印がある」


「見ておりませんので」


「見ろ」


「事故です。火の始末は、こちらの落ち度ではありません」


 誰も動かなかった。


「昨夜、風が強うございました」


「風はなかった」


「わたくしどもの記録では、ございました」


 ダグさんが一歩出た。


 ミオさんが袖を引いて、首を横に振った。


 ダグさんは止まって、木の手を握った。握る音がした。


「代官所へ出す」


「どうぞ」


「ザイデルは、あんたらの側だな」


「裁可をお持ちなだけでございます」


「同じことだ」


「違いますが、結構でございます」


 レンツさんは、袖を直して、こちらを見た。


 俺と目が合った。


「職人殿」


「はい」


「灰は、直せますか」


「聞いたことがないです」


「でしょうね」


「はい」


 レンツさんは裏口へ戻って、扉を閉めなかった。閉めないのが、答えだった。



 ハーグさんは穴の縁に手をついて、しばらく立っていた。


「元帳がない」


「はい」


「権利書もない」


「はい」


「あちらの束だけが、残った」


「そうなります」


「なら、借りは向こうの言うとおりだ」


「はい」


「査察は、三月後だ」


「はい」


「……終わりだ」


 ハーグさんはそこへ座った。石の縁に、そのまま座った。


 眼鏡を外して、膝に置いた。


 ダグさんは、何も言わなかった。


 ミオさんは留め具を握ったままだった。


 シルフィさんが俺の横に来た。来て、何も言わなかった。言わない人だ、この人は。


 俺はしゃがんだ。灰は細かかった。


 紙の灰は、木の灰より軽い。軽いのに、崩れずに層になっている。


 縁のところに、綴じ紐の形が残っていた。形だけが灰で残っている。


 俺はそこへ指を当てた。当てて、目を閉じた。


 閉じて、燃える前の姿を思った。


 出てきた。


「あ」


「なんだ」


「これ、燃える前のこと、覚えてますよ」


 誰も、答えなかった。


「ハーグさん」


「……なんだ」


「灰、集めてもらえますか。全部です。掃いた分も」


「集めて、どうする」


「戻します」


「灰をか」


「紙にです」


 ダグさんが先に動いた。木の手を、灰の中へ入れた。肘まで入れて、掻き集めた。


 まだ温かい灰だった。木は熱を平気で掴む。右手のほうは使わなかった。


 ミオさんが走った。走って、箒を持って戻ってきた。


 石畳の目に入った分を、掃き出している。風下の草の上まで、拾いに行った。


 シルフィさんが大皿を出した。受付の、番号札を並べる皿だ。


 肉屋の主人も、しゃがんだ。


 通りの人が、四人になった。六人になった。


 誰も、何をしているのかは聞かなかった。


「ダグさん」


「なんだ」


「その手、水をやってからにしてください」


「あとでやる」


「軋みますよ」


「軋んだら、直せ」


「はい」


「ねえ」


「はい」


「草の根元のは」


「それも要ります」


「爪でしか取れない」


「爪で、お願いします」


「わかったニャ」


 皿が灰でいっぱいになった。


「これで、全部か」


「全部です」


「掃いた分もか」


「掃いた分もです」


「なら、やれ」


「はい」


 俺は皿に両手を置いた。灰が浮いた。皿の上、指一本ぶんのところで止まった。


 止まって、細かいものが寄っていく。寄って、縒られて、繊維になった。


 繊維が並んだ。並んで、面になった。


 白い紙だった。


 焦げの縁が、内側へ退いていく。黒が、茶になり、それも消えた。


 インクが繊維へ沈み直した。


 文字が順に並び直す。日付が上に、額が下に出てきた。


 紙が一枚ずつ重なった。綴じ穴が合って紐が通った。


 厚い革の表紙が、いちばん外へ回った。角が四つとも丸くなった。


 筒も、あった。封蝋は、割れていなかった。


「はい、いいですよ」


 ハーグさんが立ち上がった。立ち上がって、卓のほうへ元帳を運んだ。


 運んで、開いて、指で追い始めた。


 途中で、指が止まった。


「……違う」


「どこがですか」


「屋根の修理だ。三度と聞いていた」


「三度でしたね」


「二度になっとる」


「そうですか」


「額も、半分だ」


「はい」


「わしの覚えのほうが多い」


「紙は、こう書いてありますよ」


「……書き換えられとったのか」


「そこは、わかりません」


「戻ったのは、こっちだぞ」


「戻る先が、そこだったんだと思います」


 ハーグさんは頁を繰った。繰る手が速くなった。


「窓が四度と言われた」


「はい」


「一度だ」


「一度ですね」


「借りは、あちらの言う三分の一もない」


「そうなりますか」


「なる」


 裏口が開いた。レンツさんが出てきていた。いつから見ていたのかは、わからない。


 その人は、一歩、下がった。下がって、そこで止まった。


 外套の裾が、埃で汚れていた。


 俺は元帳から顔を上げた。上げた先に、店先の秤があった。


「あと、この秤も壊れてますね」

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