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第59話「澱み」

 外はまだ雨だった。列は朝まで動かない。


 番号は明日の朝に配り直す。


 その夜、ハーグさんは奥の部屋を開けた。開けたのを、俺は初めて見た。


 中は箱だった。


 箱が床から胸の高さまで積んである。


 積み方が雑ではない。雑ではないが、十年動かしていない積み方だ。


「何を探すんですか」


「ギルドの元帳だ」


「元帳」


「借りた金の、こちら側の控えだ」


「あちらの束と、合わせるんですね」


「合えば、それまでだ」


「合わなかったら」


「合わなかったら、まだ話ができる」


「権利書はどこですか」


「同じ箱だ」


「同じ箱ですか」


「十年、開けとらん」


「開けないほうが、よかったですか」


「そう思っとった」


「今は」


「今は、出すしかない」


 ミオさんが、いちばん上の箱を下ろした。下ろすとき、埃が落ちた。


「重い」


「気をつけてくださいね」


「落とさない」


「落としても、直します」


「じゃあ落とす」


「落とさないでください」


 箱の中は紙だった。紙は波を打っている。湿気を吸って、また乾いたものだ。


 黴の匂いがした。埃と、黴と、古い糊の匂いだ。


 三つ目の箱の底に、革の表紙があった。


 厚い。角が四つとも丸い。


「あった」


「それですか」


「元帳だ」


「合わせますか」


「明日、合わせる」


「今夜は」


「目がもたん」


 ハーグさんの目は、赤かった。朝から番号を書いていた目だ。


 同じ箱に筒がひとつ入っていた。封蝋が、割れずに残っている。


「それは」


「ギルドの権利書だ」


「大事なやつですね」


「この町で、いちばん古い紙だ」


「じゃあ、しまいましょう」


「棚へ戻す」


「鍵は」


「かかっとる」


「よかったです」


 ダグさんが二つ目の箱を開けた。開けて、手を止めた。


「ハーグ」


「なんだ」


「これは、依頼の控えか」


「そうだ」


「年がずれてる」


「見せろ」


 ハーグさんは束を受け取って、灯りへ寄せた。


 寄せて、紐を持ち上げると、紐が切れた。紙が卓に散った。



「北の鉱山道が閉じた年の記録だ」


 ハーグさんはそう言った。散った紙を、順に並べ直している。


 番号が振ってある。振ってあるのに、間が二枚、抜けていた。


「十年前だ」


「閉じた理由は、書いてありますか」


「書いてある」


「なんと」


 ハーグさんは一枚を持ち上げた。持ち上げて、俺のほうへ回した。


 役人の字だった。細くて、傾きが同じで、字の間が揃っている。


 書き慣れた人の字だ。


 落石の件。人足の件。日付。


 どれも、事務の字だった。


 その下の一行だけ、筆が乱れている。


 澱ミ濃ク、通行ヲ止ム。


 濃、の字の払いが、途中で震えていた。紙の、真ん中より少し下だ。前の行との間が、広く空いている。


 書く前に、一度、手を離している。離してから、書いた行だった。


「なんのことか、わしにもわからん」


「そうですか」


「昔の役人の書いた言葉だ」


「はい」


「意味を聞かれても、答えられん」


 俺はその一行を見ていた。


「あ。……前に、一度聞きました」


 俺はシルフィさんのほうを見た。シルフィさんは、卓の端に手を置いていた。


 置いた手が止まっている。


「……申しました」


「はい」


 それきり、シルフィさんは黙った。黙って灯りの芯を切った。


 切ったので、少し明るくなった。


 俺はそれ以上、聞かなかった。聞かないほうがいい気がしたわけではない。


 この人は、言うときに言う人だ。


「ハーグさん」


「なんだ」


「この紐、直していいですか」


「紙もか」


「紙もです」


「中は、変わらんか」


「変わりません」


「なら、頼む」


 俺は切れた紐に触れた。撚りがほどけて開いている。


 開いた繊維が内側へ戻っていった。戻って、三本の縒りが噛み合う。


 噛み合って、端が締まった。


 紙のほうは、波が引いた。吸って膨らんだところが、平らになる。


 黴の点が粉になって浮いた。浮いて、卓へ落ちた。インクが繊維へ沈み直す。薄れていた日付が、濃くなった。


 綴じ穴が合って、紐が通った。


「はい、いいですよ」


 卓の上に、黴の粉が輪になって残った。


 輪の内側だけ、紙が白い。


「……全部、読めるな」


「読めますね」


「この一行は」


「そこは、そのままです」


「乱れとるぞ」


「乱れてますね」


「直せんのか」


「壊れてないので」


「震えとるだろう」


「震えたまま、書いた字です」


「……そうか」


「はい」


 ハーグさんはその一枚を見ていた。長いあいだ、見ていた。


「書いた者は、震える手で書いたわけだ」


「そうなります」


「落石の行は、震えとらん」


「はい」


「落石より、こちらが怖かったか」


「……さあ」


 俺にはわからなかった。


「ハーグさん」


「なんだ」


「この番号、二枚抜けてますね」


「抜けとる」


「探しますか」


「無い」


「無いんですか」


「番号だけが、残っとる」


「そうですか」


 俺はその一行をもう一度読んだ。澱み、という言葉は知らない。知らない言葉は、たまにある。わからないので、次の箱を開けた。


「シルフィさん」


「はい」


「灯り、もう一つ足しますか」


「足します」


「お願いします」


「ルーク様」


「はい」


「この箱は、わたくしが運びます」


「重いですよ」


「持てます」


 シルフィさんは箱を三つ運んだ。運ぶ順が、番号のとおりだった。


 いつもの人だった。いつもの人が、さっきだけ止まっていた。



「その道」


 ミオさんがそう言った。声がいつもと違った。


「はい」


「灰蜂がやられたのも、その道ニャ」


 椅子が鳴った。立ったからだ。


 立ってから、何も言わなかった。道具袋が膝から床へ落ちた。落ちたのに、拾わなかった。


 窓の外で、雨が細くなった。


 ミオさんの尻尾が、下がっていた。下がったまま、動かない。道具袋の紐を両手で握っている。


 ダグさんがミオさんを見た。見て、それから紙を見た。


「ハーグ」


「なんだ」


「この道の依頼は、まだ残ってるか」


「掲示板に、ある」


「割は」


「いちばんいい」


「なぜ残ってる」


「戻った者がおらんからだ」


「二年前も、そう言ったな」


「言った」


 ダグさんは木の手で卓に触れた。触れて、指を一本ずつ曲げた。


 五本とも、曲がった。


 曲げて、開いた。開いて、立ち上がった。


「もう一度、あの道へ入る」

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