第58話「ゼルダン商会」
その日は、朝から雨だった。列は減らなかった。
布を張った下に、人が並んでいる。
布を張ったのは、ミオさんだ。杭は四本とも折れなかった。
昼までに、七人ぶん終わった。
義手が四つ、義足が二つ、鍬が一つ。
鍬を持ってきた人は、腕も脚も揃っていた。揃っている人が並ぶのは初めてだった。
昼過ぎに坂を上ってくる音がした。石畳をゆっくり踏む音だ。
黒塗りの馬車から降りてきたのは、細い男だった。外套の裾に埃がついていない。馬車から扉までが、三歩だからだ。
男は扉の前で一度、袖を直してから、入ってきた。
「お久しゅうございます」
「あ。レンツさん」
「お元気そうで」
「はい」
「あの村は、賑わっておいでとか」
「賑わってます」
「結構なことでございます」
レンツさんは俺の横を通り過ぎた。通り過ぎて、受付の前に立った。
手には革の鞄がひとつ。紙は持っていなかった。
「ミルデ冒険者ギルド、責任者の方でよろしいですか」
「わしだ」
「ゼルダン商会、ミルデ支配人代理でございます」
「用件を言え」
「ギルドを、商会の斡旋部へ統合させていただきたい」
「断る」
「早うございますね」
「聞くまでもない」
「では、聞いていただきます」
レンツさんは鞄を開けて、束を出した。
紙の束だ。
卓に置くとき、音がしなかった。置き方を知っている人の置き方だった。
束の厚みは、指一本ぶんある。紐で二重に括ってあった。結び目が、ほどきやすい向きに向いている。
人前で開くために結んだ、結び方だった。
「十年、設備の修理代をどこから借りておいででしたか」
ハーグさんは答えなかった。
「屋根が三度。梯子が二度。石段が一度」
「……それがどうした」
「窓は四度でございます」
「数えたか」
「数えるのが、商いでございますので」
俺は束を見た。一枚だけ、手に取った。
日付が上に書いてある。下に、額と、判。判は二つとも欠けていない。
字は几帳面だ。直すところが、どこにもなかった。
俺はその紙を戻した。戻して、何も言わなかった。
「ご覧のとおり、不備はございません」
「借りたのは認める」
「利は、十年据え置きました」
「据え置いたな」
「返せとは、一度も申しておりません」
「言われたほうが、まだましだった」
「そうでございましょうね」
シルフィさんが、一歩出た。
「一つ、伺います」
「どうぞ」
「その利は、いつから据え置きでございますか」
「初めからでございます」
「据え置いた利は、どこへ参りますか」
「積んでございます」
「積んだものは、いつ倒れますか」
「……お客様が、お決めになります」
「では、まだ倒れておりませんね」
「まだ、でございます」
「承りました」
シルフィさんは下がった。下がって、両手を前で組んだ。
ハーグさんは眼鏡を外した。外して、目のところを押さえた。押さえたまま、しばらく動かなかった。
ダグさんが立ちかけた。
ミオさんが袖を引いた。引いて、首を横に振った。
ダグさんは座り直した。座り直す音が、大きかった。
雨の音が、屋根で強くなった。窓の下を、水が流れていく。
列の人はまだ帰っていない。布の下で、みんな黙っていた。
「本部の査察は、三月後でございます」
「知っている」
「ミルデの格付けはいちばん下です」
「下だ」
「最低格のギルドがどうなるか、ご存じでしょう」
「統廃合だ」
「統でしょうか、廃でしょうか」
「……廃だ」
「はい」
「廃したあと、街道の依頼はどこが受ける」
「わたくしどもが、承ります」
「そういうことか」
「はい」
ダグさんが口を開いた。
「ギルドが消えたら、この町の連中はどうなる」
「斡旋部が承ります」
「取り分は」
「相応に」
「相応か」
「はい」
「二年前、俺の依頼を受けたのはここだ」
「存じております」
「腕を落とした翌月、金を貸すと言ってきたのはあんたらだ」
「借りては、おられません」
「借りん」
「賢明でございました」
「代官所には、話を通してございます」
「ザイデルか」
「ザイデル様でございます」
「あれは、地方の任命だ」
「はい。ですが、この町の裁可はお持ちです」
「王都は知らんな」
「王都は遠うございます」
ハーグさんは眼鏡をかけ直した。かけ直して、羽根ペンを取った。
取ったが、書かなかった。
「代官さんも、借りてるんですか」
俺はそう聞いた。
部屋が静かになった。レンツさんがこちらを見て、少し笑った。
「借財の話は、しておりません」
「してましたよ」
「ギルドの話でございます」
「あ、そうですか」
「はい」
「すみません」
「いえ」
ミオさんが、俺の袖を引いた。
「ねえ」
「はい」
「あの人、悪い人ニャ」
「悪くはないと思います」
「じゃあ、なに」
「正しい人です」
「……いちばん、たち悪いじゃん」
「そうですね」
俺はまた束のほうを見た。
紙はどれも同じ厚みだ。同じ日に、まとめて書かれている。十年ぶんが同じ手で、同じ濃さで書いてある。
書き写したのだと思う。写しでも、写しだと書いてあれば、嘘ではない。
書いてあるかどうかは、下まで見ないと分からない。俺は下まで見なかった。
順番が来ていなかったからだ。
「ハーグさん」
「なんだ」
「その紙、預かっておきましょうか」
「なぜだ」
「置いておくと、濡れます」
「……濡らさん」
「はい」
「ルーク」
「はい」
「これは、ギルドの話だ」
「そうですか」
「そうだ」
「じゃあ、待ってます」
ハーグさんは、俺を見た。見て、それきり何も言わなかった。
壁の高いところに、四角い跡がある。色の抜けていない、板の色のままの四角だ。
レンツさんがそこを見上げて、何も言わなかった。あの跡が何なのかを、知っている顔だった。
レンツさんが鞄を閉じた。閉じて、留め金を二度、確かめた。
「では、三月後に」
「帰れ」
「はい」
レンツさんは扉まで歩いて、俺の横で止まった。
止まって、こちらへ体を向けた。
「職人殿」
「はい」
「あの日の書類は、覚えていますよ」
「はい」
「今度は、直せないものを持ってきました」




