第56話「【幕間】雨ざらしの杖」
王都を出て、三週間が過ぎていた。
最初の二日は手ぶらで歩いた。
三日目の朝、宿へ引き返した。割れた杖を置いてきていた。
取りに戻るのに、まる一日かかった。なぜ戻ったのかは、自分でも言えない。
道標は途中で二度あった。
どちらも、辺境側の文字が彫り直されていて、彫り口が新しい。
坂の上に立ったのは、昼過ぎだった。
下から、荷車が一台上ってきた。牛が痩せていない。
「旅の人か」
「……はい」
「この先へ行くのか」
「下りきったところは何ですか」
「オルトだ」
「廃村だと、聞きました」
「いつの話だ」
「二十年前の地図です」
「その地図は、燃やしたほうがいい」
男は笑った。悪気のない笑い方だった。
「あの煙は」
「鍛冶場だ」
「毎日、出ていますか」
「毎日だ」
「……そうですか」
「宿は二階建てだ。空きがあるかは知らん」
「泊まりません」
「ならいい」
「あの村は水が出るんですか」
「出る」
「井戸が涸れて、廃村になったと」
「涸れとった」
「今は」
「出とる」
「……直したんですか」
「直った」
「誰がですか」
「知らんな。わしは去年から通っとる口だ」
「……そうですか」
「聞きたきゃ下で聞け。みんな喋りたがる」
「いえ」
「変わった人だな」
荷車は、そのまま上っていった。
メルヴィは坂の上に残った。
家を数えた。十一軒より多い。屋根の色が揃っていない。葺き替えた家と、まだの家がある。
広場に露店が並んでいた。数えると、十ほどある。布を張った台に、菜と、干し肉と、縄。
人が値を言い合っていた。畑に人がいた。三人が腰を曲げて、何かを抜いている。抜いたものを籠へ入れていた。
水車が回っていた。半分だけ残っていた輪が、ひと続きになっている。軸の音が規則正しい。
井戸に桶がかかっていて、桶が濡れている。
誰もこちらを見ていない。
メルヴィは、杖を持ち替えた。継ぎ目が三箇所ある。
師から譲られたときは、一本の木だった。三度、自分で作り直した。上と下で、木の種類が違う。
握りの下に自分で巻いた革が二重。
雨に当てる癖は直らなかった。当てておけば木が締まる、と教わった。教わったのは、そこまでだ。
あとの手入れは、誰かがやっていた。
やっていた、はずだった。
村の入口に石積みの台がある。台の上には何も載っていない。
載せる日があるのだと、わかる形だった。
子供が走ってきた。六つか、七つだ。
手に、木彫りの馬を持っている。
「おばさん、だれ」
「……旅の者よ」
「なおしに来たの」
「……いえ」
「これ、なおしてもらったんだよ」
子供が馬を突き出した。
脚が四本ある。
彫りはうまくない。うまくないまま、揃っていた。
「あなたのなの」
「ハンナばあちゃんの。かしてくれるんだ」
「……そう」
「もっていく?」
「いりません」
「おばさん、つえがぬれてる」
「……ええ」
「なおしてもらえば」
「これは、いいの」
「なんで」
「……」
「へんなの」
「そうね」
「じゃあね」
子供は走っていった。
女が家の戸口から出てきた。
「すみませんね、うちの子が」
「……いえ」
「お茶でも、いかがです」
「結構です」
「水だけでも」
「……いえ」
「遠くから、いらしたでしょう」
「わかりますか」
「靴でわかります」
「……」
「うちも、そうでしたから」
「そう」
女はそれ以上、言わなかった。言わずに、洗い物へ戻った。
誰も彼女を知らない。誰も困っていない。それが一番こたえた。
メルヴィは、村へ一歩も入らなかった。
村の奥から打つ音がしていた。二つの音が交互に鳴る。
鎚と金床だ。
金床の返す音が、澄んでいる。欠けた金床は、あの音を返さない。
鍛冶場の音が止まってしばらくして、人が出てきた。
年寄りだった。腕だけが若い。
その人は、まっすぐ入口まで歩いてきた。
「誰を訪ねてきた」
「……いえ」
「訪ねてきたのだろう」
メルヴィは口を開いた。名前が出てこなかった。出てこないことに、自分で驚いた。
「……人違いでした」
「そうか」
「はい」
「なら、道は下だ」
「はい」
「持ってきた物は、それだけか」
「はい」
「見せてみろ」
「……いえ」
「見せんのか」
「はい」
「そうか」
老人は動かずに、杖を見ていた。
「その杖は、継いだ数だけ持ち主が替わったような面をしとる」
「……持ち主は、一人です」
「そうか」
「はい」
「わしは鍛冶だ。物しか見んから、外すこともある」
「……外していません」
老人はそれには答えずに、背を向けた。背を向けてから、言った。
「あいつはミルデだ」
「あいつ、とは」
「訪ねる相手も言えん客に、教えることはない」
「……はい」
「徒歩で二日だ」
「はい」
「日暮れまでに出れば、途中の宿に間に合う」
「……なぜ、教えるんですか」
「教えとらん」
「あの」
「なんだ」
「……いえ」
「言わんのか」
「はい」
「なら、行け」
鍛冶場の戸が閉まった。しばらくして、また音が始まった。
打つ音は休まなかった。
メルヴィは、坂を下りて、村を回る道へ入った。村の中を通らずに、街道へ出られる道だ。
その道も踏み固められていた。
二日、歩いた。
ミルデは、坂の町だった。坂の上に古い建物がある。その前に列があった。列は、坂に沿って下まで続いていた。最後尾は坂の途中だ。
メルヴィは、フードを目深にして、その後ろに立った。
前の男が、振り返った。
「番号はもらったかい」
「……いえ」
「明日の朝、配るそうだ」
「そうですか」
「並んだ順だとよ」
「……はい」
「今日はもう、終わりだと」
「はい」
「あんた、どこを直してもらうんだ」
メルヴィは答えなかった。
「腕か、脚か」
「……杖です」
「杖」
「はい」
「そうかい」
「割れているんです」
「なら、直る」
「……直りますか」
「ここに並んだ物は、みんな直った」
「そうですか」
「あんた、夜は冷えるぞ」
「はい」
「壁際は風が来ん。詰めてやる」
「結構です」
「そうかい」
男は前へ向き直った。
誰も彼女に用がなかった。
列の前のほうで、灯りがひとつ点いた。建物の窓だ。
窓の下で人影が動いている。まだ、仕事をしているらしい。
メルヴィはその場に腰を下ろして、杖を膝の上へ横に置いた。
継ぎ目の一つに指を当てる。浮いた木口が、指の腹に触れた。
言うことは決めていない。三週間、決まらなかった。
列は動かない。動かないまま、日が落ちた。




