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第53話「粗いままの手」

 親指が曲がり、節の鳴るような、小さな音がした。


 次に、人差し指。中指、薬指、小指。順に、一本ずつ。


 五本全部が曲がった。


「握ってみてください」


 ダグさんは答えなかった。答えないまま、指を折った。折って拳になった。拳の形が、右手と同じだった。


「開けます?」


 指が開いた。開いて、掌が上を向いた。黒い染みが、そこにある。


「……動く」


「動きますね」


「動く」


「はい」


「なぜ動く」


「関節があるので」


「切れ込みだ。ただの切れ込みだった」


「節になりました」


「節」


「木の、節です」


「切れ込みが、節になるのか」


「戻ると、そうなります」


「……戻る」


「はい」


 ダグさんは、指を一本ずつ曲げた。曲げて、伸ばして、また曲げた。


 小指だけ、二度やった。二度目のとき、音が鳴った。小さい音だった。


「鳴ったな」


「鳴りますね」


「木が鳴った」


「木は、鳴ります」


「生きている木もか」


「風の日に、鳴ってます」


「聞いたことがない」


「うるさいところにいると、聞こえないです」


「……そうかもしれん」


「はい」


 卓の向こうで、店の主人が立っていた。布を持ったまま、卓を拭いていない。拭かないまま、こちらを見ている。


「おい」


「はい」


「その手は、いくらだ」


「売り物じゃないです」


「同じのを、頼めるか」


「彫った人が、別にいます」


「そいつを呼べ」


「今、そこにいます」


 主人は柱の陰を見た。見て、また卓を拭き始めた。同じところを、三度拭いていた。



 俺は卓の銅貨を一枚、指した。昨日、ダグさんが払わなかった分の釣りだ。


「摘めますか」


「……やってみる」


 木の指が卓へ降りた。


 親指と人差し指。二本が銅貨の縁を挟んだ。挟んで、持ち上げた。銅貨が灯りを返した。


「摘めた」


「摘めましたね」


「爪がない」


「爪は、彫ってないので」


「あいつは、爪まで彫ろうとしていた」


「二本目にありました」


「そうか」


 俺は卓の椀を取って、木の掌に載せた。


 椀は落ちなかった。指が縁を掴んでいて、掴む力がちょうどだった。


「持てますか」


「持てる」


「痛みますか」


「痛まん」


「どこもですか」


「どこも痛まん」


「そうですか」


「痛まんのは、まずいのか」


「まずくはないです」


「なら、いい」


 ダグさんは椀を卓へ戻して、右手で自分の左を掴んだ。掴んで、握った。握って、離した。


 酒場の奥に炉がある。朝から、火が入っていた。


「炉に、突っ込んでみてもらえますか」


「……なんだと」


「熱いか、確かめたいので」


「お前、正気か」


「たぶん」


「たぶんか」


「はい」


 ダグさんは炉へ歩いた。歩いて、火の前で止まった。


 止まって、右手を一度握った。それから、木の手を入れた。炭の中に指まで入れた。


 誰も、息をしなかった。


「……熱くない」


「木ですから」


「木は燃える」


「乾いてないので」


「水を含んでいるのか」


「はい。生きてたころの水です」


「なら、乾いたら燃えるのか」


「乾かさなければ、大丈夫です」


「どれくらいでだ」


「十日に一度で、足ります」


「忘れたら」


「軋みます」


「軋んだら、遅いのか」


「軋んだ日に、水をやれば戻ります」


「面倒な手だ」


「木なので」


「どうやって、乾かさん」


「あ、でも水と日は要ります。時々、日に当てて、水を含ませてください」


「……手入れが、いるのか」


「木なので」


「面倒だな」


「面倒ですね」


「誰がやる」


「持ち主です」


「俺は片手だ」


「じゃあ、誰かに」


 ダグさんは答えないまま、炭から手を抜いた。灰が指のあいだから落ちたが、焦げはなかった。


 俺は水桶を指した。


 ダグさんは木の手を沈めた。沈めて、水の中で握った。握って、開いて、また握った。


「変わらん」


「握力ですか」


「落ちない」


「木なので」


「さっきから、それだ」


「はい」


「革は、水を吸うと滑る」


「はい」


「鉄は、錆びる」


「錆びますね」


「木は」


「水を、喜びます」


「……喜ぶのか」


「はい」


「盾は、握れるか」


「握れると思います」


「押さえは」


「利くと思います」


「思う、ばかりだな」


「使ったことがないので」


「なら、俺が使う」


「お願いします」


 その人は、水から手を抜いた。抜いて、しばらく水を垂らしていた。


 垂れる水が床に丸を作った。丸が二つになった。三つ目はできなかった。



 俺は道具袋を閉じて、紐を結んだ。


「はい、いいですよ」


 ダグさんがこちらを見た。


「終わりか」


「終わりです」


「……彫り跡が、残っている」


「はい」


「消してない」


「彫り跡は、直しませんでした」


「なぜ彫り跡を消さん」


「これは、新品にしちゃいけないやつなので」


 ダグさんは木の手を持ち上げた。持ち上げて、指の背を見た。


 鑿の滑った跡が三本。深さが違う。一つは深く、二つは浅い。


 その人は、そこから動かなかった。動かないまま、跡を指でなぞった。


 右手の指で三本、順になぞった。


 それから、膝から崩れた。床に両膝がついた。右手で顔を覆った。覆いきれていなかった。


 声を上げて泣いた。


 朝の酒場にその声だけがあった。



 外を荷車が通って、行ってしまった。


 俺は座って待った。待つ以外に、することがなかった。


 ミオさんは柱の陰にいたが、出てこなかった。そのまま、自分の彫った跡を見ていた。


 粗い跡だ。線が揃っていない。あの子は、それを三年、恥ずかしいと思っていたはずだ。


 その跡が、いま人の手の背に消されずに、ある。


 声が聞こえた。高い、細い声だった。


 初めて聞く声だった。あの子が、声を出して泣いていた。


 シルフィさんが、扉のところに立っていた。いつから、いたのか分からない。


 中へは入ってこなかった。入らずに、扉を細く開けたままにしていた。



 風が通った。


 どれくらい経ったのか、分からない。


 ダグさんが右手を床についた。ついて、体を起こした。


 立ち上がって、袖口を直した。左の袖には、もう結び目がない。


 その人は、扉へ向かった。


「あの」


「なんだ」


「どこへ行くんですか」


「剣を買い戻す」

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