第52話「木は覚えている」
次の朝、酒場の扉を押した。
朝の酒場は暗い。板戸が半分閉じたままだ。
床に昨日の匂いが残っている。
ダグさんは、一昨日と同じ席にいた。左の袖を肘の下で結んでいる。
卓の杯は減っていなかった。
「おはようございます」
「……帰れと言ったな」
「言われました」
「聞いていなかったのか」
「聞きました」
「なら帰れ」
「用があるので」
俺は卓に布包みを置いて、結び目をほどいた。木の手が出てきた。
ダグさんは見なかった。見ないまま、右手で杯を回した。
「持って帰れ」
「持って帰りますけど」
「けど、なんだ」
「その前に、一つ聞かせてください」
「……」
「これ、使う人の許可がいるんです」
「使わん」
「じゃあ、直せません」
ダグさんの手が止まった。止まって、初めてこちらを見た。
「直す、と言ったか」
「はい」
「腕は直せんと言ったのは、お前だ」
「腕は直せません」
「なら、何を直す」
「木をです」
「木」
「はい」
「その木は、壊れていない」
「壊れてます」
「彫ったままだ」
「乾いてます」
「乾いたら壊れたのか」
「木にとっては、そうです」
「……木にとって」
「はい」
「お前は、木の代弁をするのか」
「代弁はしないです」
「では、なんだ」
「聞くだけです」
ダグさんはしばらく黙っていた。黙って、袖の結び目に触れた。触れて、離した。
「同情はいらん」
「同情じゃないです。仕事です。工賃をもらいます」
「工賃」
「はい」
「いくらだ」
「……ええと、いくらでしょう」
「俺に聞くのか」
「すみません」
「相場を知らんのか」
「木の手の相場を、知らなくて」
「知らん男が、工賃と言ったのか」
「言いました」
「言ったな」
言ったことは、覚えている。覚えているが、続きがない。
ベルタさんに何度も教わった。教わったのは、値を先に言えというところまでだ。
そこから先を、俺はまだ持っていない。
「銅貨、五十枚くらいでしょうか」
「安すぎる」
「そうですか」
「鍛冶屋の修理が、それだ」
「じゃあ、六十枚で」
「……上げ方が下手だ」
「よく言われます」
「誰にだ」
「行商の人です」
「その人は、なんと言った」
「言い値を先に出すな、と」
「出したな」
「出しました」
「先に出したうえ、下から上げた」
「はい」
「よく飢えんな」
「連れが、止めるので」
「連れがまともなんだな」
「はい」
ダグさんは杯を置いた。置いて、初めて木の手を見た。長いあいだ見ていた。
「あいつは、何本彫った」
「三本です」
「三本目は」
「途中でした。指が、二本」
「……そうか」
「彫れないそうです」
「そうだろうな」
「なぜ分かるんですか」
「三本目は、俺の手を見て彫れん」
「見てないからですか」
「見せてないからだ」
「……はい」
「二本目まではな、俺の手だった」
「覚えてたんですね」
「あいつはな」
「ダグさんは」
「俺は、もう覚えとらん」
ダグさんは目を閉じた。閉じて、開けた。
開けた目は乾いていた。
「あいつが彫るのをやめないなら、俺が受け取るしかない」
「はい」
「同情じゃないぞ」
「はい」
「勘定だ」
「勘定ですね」
「そうだ」
卓を拭いた。拭いてから、木の手を置いた。
革帯は三本ある。手と一緒に、ミオさんが縫ったものだ。
縫い目は、やはり粗い。
ダグさんは、左の袖をほどいた。ほどいた下から、肘の下が出た。俺は見た。見て、目を逸らさなかった。
後ろで、ミオさんが息を止めた。
「見世物じゃない」
「はい」
「……早くしろ」
木の手の受け口を当てた。当てて、革帯を巻いた。
一巻き、二巻き、三巻き。
締めるのは、ダグさんがやった。帯の端を歯で噛んで、右手で引いた。引いて、二度噛み直した。
手つきに迷いがなかった。この人は、これを何度も練習している。受け取らないと決めたあとも、練習している。
「痛くないですか」
「痛い」
「ゆるめますか」
「このままでいい」
「はい」
「ミオ」
「……」
「帯は、お前が縫ったな」
「……うん」
「長さが、合っている」
「……測った」
「いつ測った」
「……酒場の、外から」
「そうか」
「怒らないの」
「怒らん」
「なんで」
「長さが、合っているからだ」
ミオさんは、それきり何も言わなかった。言わずに、柱の陰まで下がった。
下がって、そこから見ていた。
俺は木の手に触れた。手首の切り口のところ。乾いて、割れている。
割れ目に指を置いた。
「じゃあ、始めます。動いたら教えてください」
「……動くのか」
「木なので」
目を閉じた。この木が立っていたころを思う。
町の裏の楡。
倒れる前は、根があった。根から水が上がっていた。
上がって、枝の先まで行って、葉になっていた。
その道筋を、木はまだ持っている。持っているものを、俺は使うだけだ。
木肌の下で、水が上がった。
乾いて白かった木口が、濡れて色を持つ。白が飴色になる。
割れ目が内側から閉じ、閉じた線が木目の続きになる。
年輪が内から外へ押し広がった。
一つ、二つ、三つ。
太い年と細い年が、順に並んでいく。
切り口に樹脂の匂いが戻った。青い匂いだ。春の、雨のあとの匂いに近い。
ほどけていた繊維が、縒り直された。縒られて、束になって、指の腹へ通る。
指の関節の切れ込み。切れ込みの底で、木が寄った。寄って、膨らんで、節になった。
節と節が向かい合って、噛み合った。
彫り跡の粗さは、そのままだった。線の揺れも、そのままだった。
消す理由がどこにもない。
「重いですか」
「……いや」
「はい」
「軽くなった」
「重さは、変えてません」
「軽い」
「水が入ると、木は重くなります」
「なら、なぜ軽い」
「持ち方が、戻ったんだと思います」
ダグさんは、目を逸らさなかった。一度も、逸らさなかった。
ミオさんは両手で口を押さえていた。押さえたまま、動かない。
俺は最後に掌の面へ触れた。黒い染みが、そこにある。
汗の染みだ。
それは、残した。
残すものだと思った。
手を離した。
朝の光が、板戸の隙間から入っていた。光の帯が、卓の上を斜めに切っている。
その帯の中に木の手があった。
誰も、動かなかった。
木の指が、一本、動いた。




