第5話「銀の髪と、壊れた脚」
外に出た瞬間、それが草を分けて転がり出てきた。
人だった。
月明かりで、髪が白く光った。銀色だ。長い耳が、髪の間から覗いている。
エルフだ、と思うより先に、俺は駆け寄っていた。
「大丈夫ですか」
「……」
「聞こえますか」
「……」
「動けます?」
少女は答えない。
というより、こちらを見ていない。息が浅い。地面に爪を立てて、前へ這おうとしている。
「待って、動かないで」
「……に、げて」
「え」
「にげ、て。くる」
少女が言った。
そのとき、森が鳴った。
木が押し倒される音だ。二本、三本。太い幹が、紙のようにたわんで折れる。
出てきたものは、大きかった。
黒い。輪郭が湿っている。四つ足のようで、足の数が合わない。ひとつの塊が、いくつも脚を生やしているように見えた。
「……あれは」
「澱み、から、生まれたもの」
「なんですか、それ」
「知らないの」
「すみません、魔物には詳しくなくて」
「……人間」
少女が、かすれた声で笑った。笑ったのだと思う。
「この距離で、まだ立っていられるのね」
「はい」
「普通は、腰が抜ける」
「そうなんですか」
「そういうものを、あれは撒く」
「へえ」
「へえ、ではないわ」
「すみません」
「……変な人間ね」
「よく言われます」
少女の目が、わずかに動いた。呆れたのだと思う。
呆れる元気があるなら、まだいい。
「逃げなさい」
「あの、その前に」
俺は少女の腕を取った。
そこで、初めて脚を見た。
右脚だった。
膝から下が、黒い。
黒いというのは、汚れているという意味ではない。皮膚の色が、内側から死んでいた。指の先まで、乾いた木のような色をしている。
毒だ。それも、ずいぶん前の。
触れると、冷たかった。
生きている人の体温ではない。冷えた石を触っているのと同じだ。
「……あー」
俺は思わず声を出した。
「こりゃひどく壊れてるね」
少女が、初めてこちらを見た。
青い目だった。
その目に、怒りとも呆れともつかないものが浮かんだ。それから、ゆっくりと諦めに変わった。
「……そう。壊れているの」
声が、少しだけ整った。
「森の高位の術者が、三人がかりで、十日かけた」
「はい」
「それでも止まらなかった。もう膝の上まで来ている」
「そうですか」
「そうですか、って」
「いえ、大変だったなと」
「……あなた、怖くないの」
「脚がですか」
「わたしが。エルフが。こんな姿で」
「見慣れてはいないですけど」
「なら」
「壊れてるものは、怖くないので」
「明日には心臓へ届く。だから」
少女は俺の手を、ふりほどこうとした。
「あなたは逃げなさい。人間。わたしを庇う理由がない」
「いえ、あの」
「わたしは死ぬ。決まったことよ」
「あ、はい」
俺はうなずいた。
「決まってるんですか」
「決まっている」
「誰が決めたんですか」
少女が、目を細めた。
「……毒が」
「毒は決めないと思いますけど」
「言葉遊びをする気」
「いえ、そういうつもりでは」
「わたしは、森でいちばん深く癒す者たちに診てもらったのよ」
少女の声が、少しだけ高くなった。
「その三人が、無理だと言った。その意味がわかる?」
「わかります」
「わかっていない」
「治す方法がない、ということですよね」
「そうよ」
「はい」
俺はうなずいた。
それは、たぶん、そのとおりなのだろう。
「あの、でも」
「まだ何か」
「治すのと、直すのは、違いませんか」
少女は、答えなかった。
何を言われたのか、わからないという顔だった。
「治すのは、お医者さんの仕事です」
「……ええ」
「俺は、お医者さんじゃないので」
「だから、何」
「だから、たぶん、話が別なんです」
「意味がわからないわ」
「すみません。うまく言えなくて」
本当に、うまく言えなかった。
親方なら一言で言えたかもしれない。俺には無理だ。
うなずいてから、あたりを見回した。
黒い塊は、もう畑のあたりまで来ている。土を押しつぶす音がする。あと十を数えるほどだろう。
少女を抱えて逃げても、追いつかれる。
戦う手はない。剣を握ったこともない。
「困ったな」
「だから逃げなさいと」
「いや、そうじゃなくて」
「……そうじゃない?」
「はい。困ったのは、そこじゃないです」
少女が、わずかに眉を寄せた。
俺は足元を見た。
畑だったところの縁に、金属が落ちている。昼間に見つけて、そのままにしていたものだ。
拾い上げた。
鉄くずだった。
農具の刃だったのだろう。二十年ぶんの錆で、もう形も定かではない。指で押すと、端が粉になって落ちた。
「これ、もとは良い鉄ですね」
「……何を言っているの」
「打った人が丁寧です。目が揃ってる」
「人間」
「はい」
「あなた、いま、何をしているの」
「材料を探してました」
「材料」
「はい」
「あれが来ているのよ」
「はい」
「あと、五つ数えるほどで、ここに来る」
「そうですね」
「あなた、聞こえている?」
「聞こえてます」
「なら、なぜ」
「急いだほうがいいですよね」
俺は錆に指をかけた。
「急ぎます」
俺は錆の下を指でなぞった。
錆の層の、さらに下。この鉄が、まだ焼き入れの直後だったころの形が、そこにある。
そこまで戻せばいい。
「あの、ひとつ聞いていいですか」
「……なに」
「お名前は」
「……いま?」
「あ、あとでいいです」
「……」
「すみません、続けます」
「もうひとつ聞いていいですか」
「……どうぞ」
「剣、使えますか」
「……は」
「使えますか。剣」
「使えるけれど」
「よかった」
「よかった、って」
「俺、使えないので」
少女が、俺を見た。
それから、こちらの手の中の鉄くずを見た。
「まさか、それで戦えと」
「いえ、これはまだ鉄くずなので」
「……まだ?」
答えなかった。
答えるより、手を動かすほうが早い。
黒い塊が、柵を越えた。
柵は、ばらばらになって飛んだ。
俺はしゃがんで、少女の目の高さに合わせた。それから、鉄くずを両手で握った。
「ちょっと待ってね」
息を吸う。
「これ、直すから」




