第4話「廃村オルト」
三日歩いて、道が終わった。
道が終わってからも、草を分けて半日進んだ。
そして、開けた。
「——うわあ」
思わず、声が出た。
斜面のふもとに、村があった。
屋根が落ちている。壁が崩れている。柵は倒れて、蔦に埋もれている。井戸の縁は割れて、畑だったところは白く乾いていた。
人の気配はない。鳥の声だけがする。
ひどい有様だ。
「……ここ、全部、直せるのか」
声が震えた。
情けない話だが、少し泣きそうだった。
村ひとつ。屋根も、壁も、柵も、井戸も、畑も、道も。全部が壊れていて、全部が誰のものでもない。
つまり、誰にも怒られない。
「すごいな」
俺は坂を下りた。
まず、村を一周した。
数えるためだ。
「一軒」
崩れた小屋。
「二軒」
壁だけ残った家。
「三軒。これは、屋根がありますね」
「四軒」
「五軒。あ、ここは物置ですか」
「じゃあ、数え直しますね」
声に出すと、数を間違えない。親方に教わった癖だ。
十一軒あった。
それから、井戸がひとつ。水車が半分。物置が二つ。柵は、もう柵の形をしていない。
広場の真ん中に、石を積んだ台がある。かまどの跡だろうか。祭りのときに火を焚く場所かもしれない。
「立派ですね、これ」
台に言う。
台の縁が欠けていた。誰かが荷車をぶつけた跡だ。
「これ、ぶつけましたね」
「痛かったでしょう」
「あとで直します」
「今日じゃなくて、すみません」
村のいちばん奥に、鍛冶場があった。
炉が残っている。屋根は落ちているが、炉そのものは煉瓦が崩れただけだ。
「……ここ、いいなあ」
思わず、しゃがみ込んだ。
「煙突、ここですか」
「うまいですね」
「風が、こう抜けるようにしてある」
「作った人、わかってる人ですよ」
炉の口に手を入れた。奥まで、灰がぎっしり詰まっている。
「これ、最後まで使いましたね」
使い切って、それから村を出たのだ。
「あとで、ちゃんと見ますね」
「約束します」
名残惜しかったが、立ち上がった。
今日は、寝る場所を作るのが先だ。
一番手前の小屋から始めることにした。
理由は簡単で、そこが一番ひどかったからだ。
「こんにちは」
返事はない。当たり前だ。
「あの、勝手にすみません。ちょっと見ますね」
屋根はほとんど落ちて、梁が斜めに垂れている。壁板は半分が腐って、指で押すと崩れた。床は苔で緑になっていた。
「うわ、これは」
「柱、二本とも駄目ですね」
「あ、いや、こっちは芯が生きてます」
「よかった」
「壁板は、半分ですか」
「いや、六割ですね」
「床は……全部ですね」
「梁は……あー」
「二十年、雨ざらしですか」
俺は梁に手を置いた。
「よく持ちましたね」
「偉いですよ、あなた」
腐った木は、湿って柔らかい。芯まで水を吸って、繊維がほどけている。
ほどけた繊維の、ほどける前を思う。
山で立っていたころ。まっすぐ空へ伸びていて、目が詰まっていて、切り口から樹脂の匂いがしていたころを。
梁が、動いた。
黒く崩れた表面が、細かい粉になって落ちる。落ちた下から、乾いた木肌が出てくる。
ほどけていた繊維が、逆へ巻き戻る。
一本ずつだ。ゆっくりではない。目で追えるくらいの速さで、繊維が縒り合わさっていく。
垂れていた梁が、下から押し上げられるように水平になった。
かん、と軽い音がした。
継ぎ手が、噛み合った音だ。
「はい、そのまま」
続いて、屋根板。
苔が浮いて、剥がれ落ちる。板の反りが伸びる。落ちていた一枚が、地面から浮いて、元の位置に戻った。
釘の錆が薄片になって剥がれ、下から鉄の色が出る。
壁が閉じていく。
床の苔が消えて、板目が現れる。
最後に、樹脂の匂いがした。
山の匂いだ。切り出したばかりの木の匂い。
「……はい、いいですよ」
俺は手を離した。
小屋は、新しかった。
新しいというか、この小屋が建った日に戻っていた。戸の建て付けまで直っている。押すと、すっと開いた。
中は、埃ひとつない。
「うん」
「いいですね」
「ここに寝ます」
「よろしくお願いします」
小屋に頭を下げた。
悪くない。
悪くないが、少し引っかかった。
床の隅に、木彫りの馬が転がっている。子供の玩具だ。首が取れていた。
拾い上げて、しばらく見た。
「首、取れてますね」
馬に言う。
「直しましょうか」
言ってから、手が止まった。
彫り跡が粗い。線が揃っていない。素人の仕事だ。たぶん、この家の誰かが子供のために彫った。
これを直したら、どうなるだろう。
継ぎ目は消える。彫り跡も、彫った日のとおりに揃う。粗いままの、あの日のとおりに。
——いや。
そうではない気がした。
「……これは、いいか」
そのまま棚に置いた。
持ち主の物だ。俺が勝手に触るものではない。
「すみません。勝手に触って」
棚に向かって頭を下げた。
外へ出て、井戸へ向かった。
「こんにちは」
井戸に言う。
縁石が割れて、内側へ落ちている。落ちた石が、下で詰まっていた。
「これ、危ないですね」
覗き込む。暗い。石を一つ落としてみた。
音が、遠い。
それから、乾いた音がした。
「……水、ないですね」
宿場の主人の言ったとおりだ。井戸が涸れて、村が終わった。
「縁だけ、直しておきます」
「下は、明日にします」
「暗いので」
割れた石が起き上がり、欠けが埋まって、円が閉じた。石の目が揃って、縁が滑らかになる。
「はい、いいですよ」
「水は、明日ですね。下を見ないと」
それから、隣の小屋の戸を直した。
戸だけだ。中には入らなかった。
「今日はここまで」
声に出して、自分に言う。
腹が減っていたのと、もうひとつ、うれしすぎて手が雑になりそうだったからだ。
雑になると、人の物を壊す。親方の言ったとおりだ。
「明日は畑ですね」
畑に向かって言う。返事はない。
「そのあとが水脈です」
「井戸は縁だけ直しても、下が枯れてたら意味がないので」
「柵は、そのあとで」
「あ、道もありますね」
「道って、直せるんでしょうか」
「石畳なら直せますよね」
「土だと、どうなんでしょう」
「土も、物ですよね」
「じゃあ、いけますか」
数えているうちに、楽しくなってきた。
火を熾して、もらったパンを半分だけ食べた。
残りは明日の分だ。
道具袋を枕にして、俺は横になった。
天井がある。
十年ぶりに、自分の屋根の下で寝る。
「……幸せだな」
目を閉じかけた、そのときだった。
森の奥で、悲鳴がした。
人の声だ。
続いて、低い唸り。
獣の、ではない。もっと重くて、湿った音だった。
俺は跳ね起きた。




