第3話「親方の言葉」
親方の名前は、ヴァルトといった。
俺が十のとき、うちの村に来た流れの職人だ。父が死んで、母も死んで、俺が納屋で寝ていたころに来た。
「壊れてるな」
親方が最初に言ったのは、納屋の戸のことだった。
「はい」
「直すか」
「直せません」
「いま直せんとは聞いとらん。直すかと聞いた」
「……直します」
「よし」
それが、始まりだ。
親方は、多くを教えなかった。
やって見せて、やらせて、黙っている。うまくできると、うん、と言う。それだけだ。
「親方」
「なんだ」
「これ、なんで直るんですか」
「知らん」
「知らないんですか」
「知っとる必要があるか」
「……ないです」
「うん」
そういう人だった。
初めて一人でやらせてもらったのは、隣のじいさんの鎌だった。
刃が欠けて、柄が緩んでいた。
「どうやる」
「柄から、です」
「なぜ」
「刃を先に直すと、柄を締めるときに歪むので」
「うん」
それだけで、親方は行ってしまった。
半日かかった。
できたものを持っていくと、親方は片手で受け取って、ちらりと見た。
「うん」
「どうですか」
「じいさんに渡してこい」
「はい」
「ルーク」
「はい」
「褒めてほしいか」
「……はい」
「じいさんが褒めるだろう」
そのとおりだった。
八年、そうやって暮らした。
親方が寝つく前の年、俺は炉の火加減をひとつ間違えて、頼まれた鍬を駄目にした。
持ち主のばあさんに謝りに行った。ばあさんは怒らなかった。それが、いちばんこたえた。
帰ってきたら、親方が炉の前に座っていた。
「ルーク」
「はい」
「お前は、器用だ」
「ありがとうございます」
「褒めとらん」
親方は炭を掻いた。
「器用な奴はな。自分を大きく見る」
「はい」
「大きく見ると、手が雑になる。雑になると、人の物を壊す」
「はい」
「だから、覚えておけ」
親方はこちらを見た。灯りで、目の下の皺が深く見えた。
「お前の腕は、町の修理屋の技だ。驕るな」
「……はい」
「返事が短いな。不服か」
「いえ」
「そうか」
親方は、少し笑った。
「町の修理屋ってのはな、ルーク」
「はい」
「大した仕事だぞ」
その冬に、親方は死んだ。
道具袋だけが残った。
だから、俺は自分の腕を知っている。
町の修理屋の腕だ。
鍋も直す。戸も直す。剣も直す。頼まれれば大抵のものは直る。ただ、それは町の修理屋なら誰でもやることで、特別なことは何ひとつない。
そう教わって、そう信じてきた。
疑ったことは、一度もない。
街道を半日歩いたところで、荷車に会った。
車輪が外れて、道の端で傾いている。荷は麦の袋だ。若い男が二人、途方に暮れていた。
「どうしました」
「車軸が折れちまって」
「見てもいいですか」
「見たって直らねえよ」
「まあ、一応」
見せてもらった。
折れているのは軸の根元だ。木の目に沿って裂けている。この裂け方は、去年からじわじわきていたものだ。
「これ、直しますか」
「直せるのかい」
「たぶん」
「たぶんって」
「木は繋がりやすいので」
道端の折れ枝を拾って、裂け目に添えた。
それから、手を当てる。
この木が、まだ立っていたころの形を思う。目が詰まっていて、水がとおって、まっすぐだったころ。
裂け目が閉じていく。
繊維が一本ずつ元の並びを思い出して、噛み合って、継ぎ目が消える。添えた枝は、いつのまにか軸そのものになっていた。
「はい、いいですよ」
「……は?」
「あ、すみません。癖で」
「いや、そこじゃねえ」
男の一人が、軸をつかんだ。揺すった。びくともしない。
「おい、これ」
「なんだよ」
「新品より、いいぞ」
車輪を戻して、押してみた。がたつきはない。二人は車軸を撫でて、それから俺を見た。
「あんた、何者だ」
「町の修理屋です」
「いや、だって、これ」
「もとが良い木でしたから」
「もとが良いって、折れてたんだぞ」
「折れる前は、良かったんですよ」
「……そういうもんか」
「そういうものです」
男たちは顔を見合わせた。
それから、荷からパンを一つ出して、押しつけてきた。
「これしか出せねえ」
「十分です」
「いや、足りねえだろ」
「足ります。車軸ひとつですから」
本当にそう思っていた。
車軸ひとつでパンが一つなら、むしろもらいすぎだ。俺は礼を言って、歩き出した。
背中で、二人が何か言い合っていた。
日が傾いてから、宿場の軒先で地図を広げた。
借り物ではない。銅貨を四枚出して、自分で買った写しだ。
指でなぞる。町の名前、村の名前。人のいるところは、たいてい修理屋がもういる。
俺の工房を持つなら、誰もいないところがいい。
指が、端まで来た。
紙の隅に、消えかけた文字がある。
「……オルト」
村の印はある。けれど、そこから先の道が描かれていない。
「主人。この村、知ってますか」
宿場の主人が覗き込んで、ああ、と言った。
「あそこはもう誰もおらんよ」
「そうなんですか」
「二十年前にな。井戸が涸れて、それきりだ」
「道は」
「あるにはあるが、途中で消える。何もないぞ、あそこは」
「そうですか」
「やめとけ。行っても何もない」
「何もないのは、いいですね」
「は?」
「いえ。ありがとうございます」
主人は変な顔をして、それから思い出したように言った。
「兄ちゃん、鍋は直せるか」
「直せます」
「裏に穴の開いたのがある。捨てるつもりだったんだが」
「見ますね」
「いや、いいんだ。もう十五年使った」
「十五年ですか」
「かみさんが持ってきたやつでな」
「じゃあ、なおさら見ます」
底に、指ほどの穴が開いていた。長く使って、そこだけ薄くなったのだ。
穴を塞ぐのではなく、薄くなる前の厚みに戻す。
「はい、いいですよ」
「……早いな」
「もとが丈夫でしたから」
主人は鍋の底を、何度も指で叩いた。それから、宿代をいらないと言った。
断ったが、押し切られた。
俺は地図をたたんだ。
誰もいない。
つまり、修理屋も、いない。




