第48話「元白金の徽章の冒険者ダグ」
酒場は暗かった。窓が二つあるのに、片方は樽で塞がれている。
卓が六つ。人は、七人。
誰も、こちらを見なかった。
主人が布で杯を拭いていた。
拭いた杯を、また同じ場所へ戻している。
「いらっしゃい」
「三人です」
「好きなところへ」
「奥は」
「奥は、埋まってる」
埋まっているのは、一人だけだった。
「あの人、いつもですか」
「毎日いる」
「飲んでるんですか」
「飲まん」
「飲まないのに、いるんですか」
「座ってる」
「何時までですか」
「閉めるまでだ」
主人はまた杯を拭き始めた。
手前の卓の男が俺の袖を引いた。赤ら顔の、若い男だった。
「やめとけ」
「話しかけたら、まずいですか」
「怒りゃしないさ」
「では」
「怒らないから、困るんだ」
「困りますか」
「困る。こっちが黙るしかなくなる」
男はそう言って杯を空けた。空けてから、声を落とした。
「あの人な、白金の徽章まで行った」
「そうなんですか」
「この町から出た、唯一だ」
「いまは」
「返した。去年な」
俺はそちらへ歩いた。
シルフィが、少し後ろを付いてきた。
ミオさんは戸口で止まった。
止まって、動かなかった。
男は壁にもたれていた。
四十を過ぎているだろう。肩が、卓の幅の半分ある。髭は剃っていない。剃らないのではなく、剃れないのだと思った。
左の袖が、肘の下で結んである。二重に折って、きつく結んであった。
卓に酒が置いてある。置いたまま、減っていない。泡がとうに消えていた。
「相席、いいですか」
男は答えずに、戸口のほうを見た。見た先に、ミオさんがいた。
「まだミルデにいたのか。帰れ」
ミオさんは動かなかった。
俺はその前に座った。
「はじめまして。ルークといいます」
「知らん」
「今日、ギルドで登録しました」
「そうか」
「いちばん下の級です」
「そうか」
男はそれきり黙った。黙って、天井の梁を見ていた。
俺は卓の上の手を見た。右手だ。指が太い。
指の腹に、皮の厚くなった跡がある。いまは、柔らかくなりかけていた。
厚みが、剥がれずに残っている。
握らなくなってから、まだそれほど経っていない手だった。
それから、左の袖を見た。
「その袖、結び方がうまいですね」
梁を見ていた目が、下りてきた。
「なんだ」
「結び目がずれてません」
「……」
「片手で結んだんですよね」
男は俺を初めて、まっすぐに見た。それから、袖の結び目に目を落とした。
「三月かかった」
「三月ですか」
「最初は、歯で引いた」
「いまは、引いてませんね」
「引かん」
「上手くなったんですね」
男は答えなかった。答えずに、酒の杯を指で回した。回しただけで、飲まなかった。
杯の縁に、乾いた跡がなかった。この杯は、今日も口をつけられていない。
卓の木目に、輪の染みが幾つも重なっている。
毎日、同じ場所へ置いてきた跡だった。
「あんた、何をしに来た」
「町を、見に来ました」
「町じゃない。ここへだ」
「ミオさんが案内してくれたので」
男の眉が動いた。動いてから、また戻った。
「腕を直せると聞いて来たのか」
「いえ」
「三人来た。三人とも嘘だった」
「三人ですか」
「一人目は、金を取って逃げた」
「はい」
「二人目は、祈っていった」
「はい」
「三人目は、俺の目の前で泣いた」
「泣かれたんですか」
「泣かれた」
男はそこで初めて杯を持ち上げた。
持ち上げて、口をつけずに置いた。
「あんたは、どれだ」
「腕は直せません」
店の音が、少し遠くなった。
主人が杯を拭く手を止めていた。
戸口で、ミオさんが顔を上げた。この人は、酒場に入ってから一度も口をきいていない。いまも、きかなかった。
顔を上げただけだった。
「……お前、正直だな」
「無いものは、直せないので」
「無い、と言ったな」
「はい」
「他の連中はそう言わなかった」
「そうですか」
「みんな、必ず戻ると言った」
「戻らないと思います」
「なぜ、そう言える」
「壊れたものは直せますけど」
「けど」
「無くなったものは、壊れてないので」
男は、しばらく黙っていた。
黙って、自分の左の袖を見ていた。
見て、それから笑った。声は出さなかった。息だけの笑いだった。
「腹の立たん言われ方だな」
「怒られると思ってました」
「怒らん」
「よかったです」
「よくはない」
男は杯を押しやった。
「帰れ」
「はい」
「俺は、終わった」
「はい」
「はい、で終わるのか」
「終わったと仰るので」
「……変な奴だ」
俺は立ち上がった。立ち上がって、卓に手をついた。卓の脚が鳴った。
鳴った脚を、俺は見た。見て、手を離した。
「ダグさん」
「なぜ、名を知っている」
「聞きました」
「そうか」
「その卓、脚が緩んでます」
「知っている」
「では」
「触るな」
「はい」
俺は手を引いた。
「ダグさん」
「まだいたのか」
「明日も、来ていいですか」
「来るな」
「はい」
「来るなと言ったぞ」
「聞きました」
「聞いて、どうする」
「たぶん、また来ます」
「話を聞いていないだろう」
「聞きました。帰れと、終わったと」
「わかっているなら来るな」
「でも、酒場なので」
「なんだと」
「ここ、誰でも入れますよね」
ダグさんは口を開けた。開けて、閉じた。それきり、顔を上げなかった。
外は、暗くなっていた。
坂を、上へ歩いた。行きは下りだった道が、帰りは上りだった。
シルフィが何度か口を開いた。開いて、そのつど閉じた。三度目に、開いたまま言った。
「ルーク様」
「はい」
「お腹立ちには、なりませんでしたか」
「なぜですか」
「帰れと、二度仰いました」
「二度でしたね」
「わたくしは、少し腹が立ちました」
「シルフィさんが」
「はい」
「珍しいですね」
「あの方は、ご自分に言っておいででした」
「そうですか」
「帰れと仰るとき、こちらを見ていらっしゃいません」
「見てませんでしたね」
「見ずに言う言葉は、たいてい自分に向いております」
「詳しいですね」
「……昔、同じことをいたしました」
俺は、それには何も言わなかった。
言わずに、坂を上った。
ミオさんは、俺の三歩後ろを歩いていた。速さは、合っている。
詰めないのは、いつものことだ。
この人は、背の荷を負い直していた。布に包んだ、細長い荷だ。街道でも、林でも、負い直していた。中身の形は、もう知っている。
宿の灯りが坂の上に見えた。一つだけ点いている。
ミオさんが足を止めた。止まってから、下を向いた。
言葉は、俺に向けたものではなかった。
俺に聞かせるつもりも、なかったと思う。
「三本目の手、まだ彫ってないニャ」




