第46話「ギルドマスター・ハーグ」
老人は顔を上げなかった。
「依頼はいただきに来たのではないんです」
「では、何だ」
「登録を、お願いできますか」
羽根ペンが止まった。
老人が顔を上げた。
白いものの混じった髪を、後ろで束ねている。
上着は仕立てがよかった。いいのに、袖口が擦り切れている。糸がほつれて垂れていた。
「登録」
「はい」
「この町でか」
「はい」
「よその町のほうが、実入りはいいぞ」
「この町に、来たので」
老人はしばらく俺を見ていた。見てから、帳簿を閉じた。
閉じる前に、中が見えた。
数字が赤かった。開いていた頁は、どちらも赤い。黒い数字を、俺は一つも見なかった。
老人は机の引き出しを開けて、紙を一枚出した。紙は湿気で波を打っている。
「名は」
「ルークです」
「歳」
「二十八です」
「得意なものは」
「修繕です」
「……修繕」
「はい」
「戦うほうは」
「できません」
「一つもか」
「一つもです」
奥の卓で、椅子が鳴った。
男が三人、こちらを見ている。
一人が鼻で嗤った。
老人は嗤わなかった。嗤わずに紙へ字を書いていく。書き終えて、羽根ペンを置いた。
「登録料が銅貨で三十いる」
「あります」
数えて、机に並べた。
ハーグさんはその三十枚を数え直さなかった。数えずに、引き出しへ入れた。
入れるとき、引き出しの底が見えた。ほかには、何も入っていなかった。
「等級はいちばん下からだ。実績がないからな」
「一からですか。いいですね」
羽根ペンが机の上で転がった。転がって止まった。
「……いいのか」
「はい」
「下からだと言ったぞ」
「聞きました」
「上から始められる者もいる。腕があればな」
「一からのほうが、やることが多いので」
老人は黙って、俺の顔を見た。
嗤う顔ではなかった。
いま言われたことを、頭の中で並べ直している顔だった。
奥の卓の笑い声が、途中で止まった。
「そうか」
「はい」
「……そうか」
二度、同じことを言った。
それから、箱を出してきた。中に徽章が入っている。
摘まみ上げたものは、鉄だった。色がついていない。
「これがいちばん下だ」
「軽いですね」
「安いからな」
「色は、ないんですね」
「色がつくのは、三つ上からだ。銅、銀、白金の順に上がる」
「三つ上ですか」
「三つ上まで行く者は、十年に何人もおらん」
「じゃあ、しばらくこれですね」
「しばらくどころではない」
「はい」
俺は徽章を上着の内側に留めた。留めるとき、留め針の先が曲がっていた。
指で戻した。すぐに、まっすぐになった。
奥の壁を見ると、板が張ってある。
その一枚だけ、四角く色が濃かった。
長いあいだ、何かが掛かっていた跡だ。
「あそこ、何か掛かってたんですか」
「札だ」
「札」
「等級の札だな。町のギルドの格を、外へ出しておく」
「外したんですか」
「返した」
「返すものなんですか」
「落ちたら返す。そういう決まりだ」
釘の穴が四つ残っていた。新しく打ち直した跡はない。
老人の目が、俺の後ろへ動いた。ミオさんが、袖から手を離したところだった。
「戻ったのか」
ミオさんは答えなかった。答えずに、床を見た。
耳が伏せている。
老人も、それ以上は言わなかった。
名を呼ばなかった。呼べば、答えなければならなくなる。
シルフィが半歩、横へずれて、ミオさんと机のあいだに入った。入っただけで、何も言わない。
老人は、それを見てから、紙をこちらへ回した。
「ハーグだ。ここのギルドマスターをしている」
「ルークです。よろしくお願いします」
「連れの方は」
「シルフィと申します」
「エルフか」
「はい」
「この町には、何もないぞ」
「わたくしは、あの方の連れでございます」
ハーグさんはうなずいた。うなずいて、蝋燭の芯を指で摘まんだ。
短くなった芯だった。替えの蝋燭は、机の上になかった。
「ハーグさん」
「なんだ」
「掲示板の紙、三枚でしたけど」
「三枚だ」
「少ないですね」
「依頼が来んのだ」
「町の人が困っていないんですか」
「困っている」
「では、なぜ」
「向かいに、斡旋所ができた。そちらへ行く」
ハーグさんは窓のほうへ顎を向けた。窓には、内側から板が打ってある。向かいは見えなかった。
奥の卓の男たちが、立ち上がった。立ち上がって、出ていく。
一人が、扉の手前で連れに言った。
「今月も、あの爺さんの持ち出しだろ」
「言うなよ」
「言わなきゃ、誰も知らないだろ」
扉が閉まった。
ハーグさんは、帳簿を撫でていた。
聞こえていた顔だった。
「ハーグさん」
「なんだ」
「何か、困っていることはありますか」
ハーグさんは、すぐには答えなかった。
「うちは、人に何かを頼める状態じゃない」
「そうですか」
「頼めば、報酬がいる」
「はい」
「ないものは、出せん」
恨みのない言い方だった。当たり前のことを、当たり前に言っている。
俺は、それ以上は聞かなかった。
シルフィが、俺の袖を引いた。
「ルーク様」
「はい」
「あの方は、お困りでございます」
「みたいですね」
「困っているとは、仰いませんでした」
「言いませんでしたね」
「言えぬ方でございます」
「そうですね」
「そういう方が、いちばん困っておいでです」
「はい」
紙に名前を書いて、返した。
「ハーグさん、この町に宿はありますか」
「坂の上に、一軒ある」
「開いてますか」
「開いている。客がおらんだけだ」
「泊まれますね」
「泊まれる。安いぞ」
「安いのは、助かります」
「安いのは、いいことではない」
返すとき、机の横が目に入った。
受付の椅子だ。背もたれが、少し傾いている。傾いたぶん、座る人は前へ寄ることになる。
座面の下を見た。脚が四本。そのうち一本、継ぎ目が割れていた。
割れた口に、布が巻いてある。何度も巻き直した布だった。端が黒くなっている。
巻き方は、丁寧だった。丁寧に巻いても、割れは閉じない。
布は割れを隠しているだけだ。隠したものは、いつか外れる。
「ハーグさん」
「なんだ」
「その椅子、脚が壊れてますね」
ハーグさんは、自分の座っている椅子を見た。見てから、また俺を見た。
「二年、そうだ」
「二年ですか」
「座れる。座れれば、いい」
「直していいですか」




