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第44話「留守を頼む」

 まだ暗いうちに、戸を叩く音がした。指の関節で二度。強い叩き方だった。


 開けると、ガドーさんが立っていた。


「早いですね」


「年寄りは眠りが浅い」


「前も、そう言ってました」


「本当のことだ」


 ガドーさんは俺の道具袋を取った。


 取って、口を開けて、中に何かを押し込んだ。


「鑢だ。俺が打った」


「いただけません」


「もう入れた」


「入りましたね」


「折れたら、それも土産だ」


 俺は頭を下げた。


 上げたときには、もういなかった。


 袋を開けて中を見ると、目の細かい鑢が一本。柄のところに、指の当たる窪みが彫ってある。


 俺の手に合わせて、彫ってあった。いつ測ったのかは、わからない。



 日が出るころ、広場に人が集まっていた。思ったより多い、多いというより全員だった。


 誰かが膝をつこうとした。


「やめてください」


「しかし」


「道が濡れてます」


「はい」


「濡れてるので」


 膝をつきかけた人が、立ち上がって手を振った。


 それでいいと思う。


 ハンナさんが杖をついて前に出た。


「達者でな」


「はい」


「棚の戸は、帰ってからでいいよ」


「はい」


「忘れるんじゃないよ」


「忘れません」


「忘れたら、承知しないからね」


「はい」


 ハンナさんはそれだけ言って下がった。下がるとき、少しだけ足がふらついた。


 ボルグさんが後ろで支えていた。


 コルが走ってきた。手に木彫りの馬を持っている。


 高く掲げて、振った。


「修理屋のおじちゃん、いってらっしゃい」


「行ってきます」


「うま、見せた」


「見えました」


「まだ、なおってないよ」


「そのままでいいんです」


「うん」


 リナさんが後ろで笑っていた。


 ベルタさんが包みをひとつ押しつけてきた。


「服だよ。詰めといた」


「ありがとうございます」


「着るんだよ」


「着ます」


「道具袋に入れる気だろ」


「入れました」


「別の袋があるんだよ」


「重くなりますね」


「重いんだよ、旅ってのは」


「ベルタさん」


「なんだい」


「留守のあいだ、値段は」


「あたしが決める」


「安めでお願いします」


「安くしないよ」


「そこは、譲りませんね」


「譲ったら、あんたが飢える」


 ベルタさんはそう言って荷車のほうへ戻った。戻る途中で、ミオさんの前で足を止めた。


「あんた」


「……なに」


「その靴、履きな」


 ミオさんは答えなかった。答えずに、靴を抱え直した。


 ベルタさんは、それ以上は言わなかった。



 村の外れで、一度だけ振り返った。人はまだ手を振っていた。


 鍛冶場の煙突から、煙が二本、上がっている。あの人は来なかった。来ないほうが、あの人らしい。


 街道に出た。道は思ったより広かった。


 二年前、俺はここを反対向きに歩いてきた。そのときは、道が消えかけていた。


 シルフィが横を歩き、ミオさんは、少し後ろにいた。


 五歩ぶんくらい、後ろだ。速さは合っている。詰めないだけだった。


 シルフィが足を緩めた。緩めて、ミオさんの隣に並んだ。


「ここは二人で歩く道でございます」


「……せまくない?」


「広うございます」


「そう?」


「三人でも歩けます」


 それから、二人は並んで歩いた。


 俺は少し前を歩いた。


 後ろで、時々、小さい声がしていた。


 何を話しているかは、聞こえなかった。



 昼前に足が止まった。


「あ、道標が倒れてますね」


「ルーク様」


「すぐ終わりますので」


 道標は根元が腐っていた。斜めに傾いて、彫り字が苔に埋まっている。何と書いてあるのか、読めない。


 俺は苔を指で払った。払っても、字は出てこない。彫りの底まで、埋まっている。


 柱に手を当てた。腐った木が粉になって落ちていく。


 落ちた下から、白い木肌が出てきた。


 繊維が下から上へ編み上がっていく。年輪が輪を閉じた。彫り字の底に、影が戻った。


 ——ミルデまで、二日。


「読めるようになりました」


「はい」


「行きましょうか」


 半刻もしないうちに、二本目があった。


「これも、倒れてますね」


「ルーク様」


「はい」


「日が暮れます」


「まだ高いですよ」


「先ほどより、低うございます」


「低いですね」


「低うございます」


「一本だけです」


「先ほども、そう仰いました」


 三本目のとき、シルフィは何も言わなかった。言わずに、荷を下ろして座った。


 ミオさんも、隣に座った。


「……なんで直すの」


「倒れてたので」


「誰も読まないよ」


「読む人が、来るかもしれません」


「来ないよ。この道、もう誰も来ない」


「じゃあ、来たときに困ります」


「……理屈がおかしい」


「よく言われます」


 ミオさんは、しばらく黙っていた。黙って、彫り字を指でなぞった。


「二日って書いてある」


「はい」


「あたし、三日かかった」


「道を、外れたんですね」


「うん」


「じゃあ、この道標のせいですね」


 ミオさんが顔を上げた。


「道標のせいなの」


「たぶん」


「あたしのせいじゃなくて?」


「読めない道標は、壊れてます」


「……そう」


「そうです」


 ミオさんはまた下を向いた。向いてから、小さい声で言った。


「じゃあ、四本目もあるニャ」


「あるんですか」


「この先に、二本」


「教えてください」


「……教える」


 シルフィが天を仰いだ。仰いでから、荷を担ぎ直した。


「本日は、野宿でございますね」


「野宿ですか」


「はい」


「じゃあ、火を熾しましょう」


「その前に、四本目でございましょう」


「そうでした」



 日が傾くころ、道が細くなった。


 林が、両側から寄ってきている。


 枝が低い。頭を下げないと通れないところが、何度かあった。


 その先に、縄が張ってあった。


 道を横切って、腰の高さに一本。新しい縄だ。まだ、毛羽立っていない。


 張ってから、何日も経っていない。


 結んである木の皮が、そこだけ剥けて白かった。


 縄は、太い。人を止めるには、太すぎる。


 止めたいのは、人ではなく荷車なのだと思う。


「シルフィさん」


「はい」


「これ、通行止めですかね」


「そう見えます」


 縄の真ん中に、木札が一枚、下がっていた。


 字は、読めた。


 ——この先、通行を禁ず。


 その下に、紋が焼き付けてある。俺はその紋を知っていた。


 去年、契約書を一枚、直したことがある。文言が壊れていた紙だ。直したら、字が並び替わった。


 あのときの紙の隅に、同じ紋が押してあった。

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