第43話「ミルデという町」
ベルタさんの荷車が来たのは、三日後だった。
車輪の音でわかる。この人の荷車は、右の輪だけ音が高い。
直しましょうかと言ったら断られた。目印になるからだそうだ。
「ベルタさん」
「聞いたよ」
「何をですか」
「猫の子を拾ったって」
「拾ってません。来たんです」
「同じだろ」
「違うと思います」
「同じだよ」
ベルタさんは荷を下ろしながら喋る人だ。手が止まらない、口も止まらない。
「あんた、王都へ行くんだろ」
「はい」
「道は」
「まっすぐ行くつもりです」
「まっすぐ行くと、ミルデを通る」
「そう聞きました」
ベルタさんは麻袋をひとつ、地面に落とした。落として、腰を伸ばした。
「あの町、二年で半分死んだよ」
「半分」
「通行料が三倍」
「三倍ですか」
「代官が上げた。上げたら、隊商が来なくなった」
「来なくなると、どうなるんですか」
「物が入らない。入らないから、値が上がる」
「値が上がると」
「人が出ていく」
「出ていくと」
「もっと値が上がる」
ベルタさんは品書きを出した。指で上から下へなぞる。
「見な。塩がうちの倍」
「倍」
「油が三倍。麦が二倍半」
「全部おかしいですね」
「全部おかしいんだよ」
「なんで、そんな町に品を運ぶんですか」
「運んでないよ。あたしは手前で折り返す」
「そうですか」
「みんな折り返す。だから、余計に死ぬ」
ベルタさんは品書きを畳んで、荷の上に置いた。置いてから、また取って、俺に押しつけた。
紙の端が汗で柔らかくなっていた。握ったまま考えていたのだと思う。
値の並びをもう一度見た。
塩と、油と、麦。どれも、人が毎日使うものばかりだった。
高くなって困るのは、まず、いちばん貧しい家だ。
「ギルドも、潰れかけてる」
「冒険者のですか」
「そう。二年前まで、この街道でいちばん大きかった」
「今は」
「看板が傾いてるらしいね」
「傾いてるだけなら、直せます」
「そこじゃないんだよ」
「そこじゃないんですか」
「ギルドが潰れると、まともな仕事が消えるんだ」
「まともな」
「表に出せる仕事のことだよ」
「……ああ」
「わかったのかい」
「たぶん」
「たぶんでいい」
表に出せない仕事というのが、何を指すのかはわかる。
団にいたころ、そういう話を何度か聞いた。聞いただけで、見たことはない。俺は地下にいて、上がってくる装備しか知らなかった。
土間の隅でミオさんが動いた。膝を抱えて座ったまま、耳だけがこちらを向いている。
ベルタさんはそれに気づかないふりをした。気づかないふりが、この人はいちばん上手い。
昼に、シルフィが書状を持ってきた。二重に封をした、あの紙だ。
「そろそろ、開けねばなりません」
「開けていいんですか」
「本日から、開けてよいことになっております」
「そんな決まりがあるんですね」
「ございます」
シルフィが封を切った。赤い蝋がきれいに二つへ割れた。
紙は厚い。角がひとつも折れていなかった。筒に入れて運ばれ、筒から出されて、そのまま置かれていた紙だ。
広げると、思ったより短い。三行しかなかった。余白のほうが、字より広い。書く人が、書くことを持っていなかったのだと思う。
「読み上げます」
「はい」
「一月ののち、王都エルンハイムへ参られたし」
「はい」
「城門にて、迎えの者を立たせる」
「はい」
「以上でございます」
「短いですね」
「短うございます」
「何を直すかは」
「書いてございません」
「そうですか」
日付のところだけ、字が太かった。筆を置き直して、押しつけて書いている。そこで力を入れたのだと思う。
「シルフィさん」
「はい」
「ミルデって、王都へ行く途中ですよね」
「唯一の道でございます」
「唯一」
「山を回れば、ひと月増えます」
「ひと月」
「はい」
俺はうなずいた。
「じゃあ、通り道ですね」
ベルタさんが荷車のところで手を止めた。止めて、額を押さえた。
「あんた、いま何て言った」
「通り道です」
「……そうだね。通り道だ」
「違いますか」
「違わないよ。違わないのが怖いんだよ」
シルフィは紙の下の端を見ていた。爪ほどの、黒い蝋。波が三本と、鍵が一本。この前と、同じ形だ。
「シルフィさん」
「はい」
「それ、まだ気になりますか」
「いいえ」
「そうですか」
この人は、嘘が下手だ。下手なのに、押し通す。押し通されると、こちらは引くしかない。
俺は書状を巻き直して、筒に戻した。筒の口を指で拭いた。埃が、少しついた。
夕方、鍛冶場へ行った。ガドーさんは炉の前にいた。
「発つのか」
「三日後です」
「そうか」
「留守のことなんですが」
「ここは俺が見る」
言い終わる前に、そう言われた。
「余計なもんは置いてけ」
「余計なもの」
「心配だ」
「はい」
「置いていけるか」
「たぶん」
「たぶんでいい」
ガドーさんはそれきり炉のほうを向いた。向いたまま、槌を持った。
鍛冶場には、弟子が三人いる。三人とも、手を止めてこちらを見ていた。見ていたのに、誰も何も言わなかった。
言わないのは、ガドーさんが言わないからだ。この人たちは、そういうところまで似てきている。
俺は頭を下げて出た。
工房に戻ると、ベルタさんが帳面を広げていた。
「商いは、あたしが回すよ」
「一緒に来ないんですか」
「あたしは商売がある」
「そうですか」
「それに、あたしが行くと値切っちまう」
「だめなんですか」
「あの町で値切ったら、根に持たれるよ」
「物騒ですね」
「物騒なんだよ」
夜、荷をまとめた。
まとめるといっても、道具袋がひとつだ。
鑢が三本、金槌がひとつ、油の壜。十年、これで足りてきた。
足りない日は、たぶん、道具のせいではない。
紐を締めて肩に掛けてみた。重さは、追い出された日と変わらなかった。
シルフィが、自分の荷を廊下に並べていた。俺の三倍あった。
「シルフィさん」
「はい」
「多くないですか」
「少のうございます」
「そうですか」
「ルーク様の分も入っております」
「俺の分」
「着替えでございます」
土間で音がした。ミオさんが立っていた。
靴を抱えたままだ。三日経っても、履いていない。
「あの」
「はい」
ミオさんは下を向いた。向いたまま、しばらく黙っていた。
耳が一度だけ動いた。
「……あたし、案内していい?」
俺は道具袋の紐を結んだ。
「はい、お願いします」
ミオさんの耳が跳ねた。跳ねてから、ゆっくり倒れた。顔は上げなかった。
俺は、紐の結び目をもう一度確かめた。確かめるほどのことでもなかった。
ほかに、見るところがなかっただけだ。




