第41話「弟子にしてくださいニャ」
朝の光が土間まで届いていた。
その光の中で、猫の耳が二つ震えている。
額は地面についたままだ。
俺はその場にしゃがんだ。
「床、冷たいですよ」
返事はなかった。耳が一度だけ跳ねた。
「そこ、土間なんです。朝は特に冷えます」
「……冷たくないニャ」
「冷たいですよ。俺も座ってるのでわかります」
その子は、額をつけたまま言った。
「弟子にしてください」
「聞こえました」
「じゃあ」
「まず、顔を上げてください」
「上げたら、断るでしょ」
「上げなくても、断ります」
顔が上がった。目が大きい。金に近い茶色をしていた。
「……上げちゃった」
「はい」
「ずるい」
「すみません」
「お名前は」
「ミオ」
「ミオさん」
「さんはいらないニャ」
「じゃあ、ミオさん」
「聞いてた?」
「聞いてました」
道の先で、人の声がした。
朝いちばんの列が、もうできている。
先頭の人がこちらを覗いていた。覗いて、すぐ目をそらした。この村の人は、そういうところが上手い。
俺は戸口から体をどけた。
「入ってください」
「いいの」
「そこにいられると、戸が閉まらないので」
ミオさんは、四つん這いのまま中へ入った。
立ち上がるのに、時間がかかった。
膝も、腕も、傷だらけだった。古い傷の上に、新しい傷が乗っている。
俺は、椅子を出した。祭りの夜に直した、三つ目のやつだ。
「座ってください」
「立ってられる」
「座らないと、靴が脱げません」
「靴」
「はい。靴です」
「ルーク様」
シルフィが奥から出てきた。出てきて、土間を見て止まった。
「……お客様でございますか」
「弟子入りの志願だそうです」
「弟子」
「はい」
「うちに、弟子はおりません」
「そうなんですよ」
「本日、五十九件でございます」
「そうでしたね」
「一番の方が、もう表に」
「先に、こっちを済ませます」
「かしこまりました」
シルフィは、それ以上は言わなかった。
言わずに、表へ出て、列に頭を下げていた。
ミオさんは椅子に座った。
「失礼します」
俺は片方の靴に手をかけた。
紐が途中で切れて、結び直してある。結び目が四つあった。
脱がせると足の裏が見えた、割れている。踵から土踏まずへ、線が二本走っていた。
「何日、歩きましたか」
「三日」
「休まずにですか」
「うん」
「そうですか」
シルフィが桶を取りに立った。何も言わずに立った。
俺は靴のほうを持った。
底が前の半分だけ剥がれている。
剥がれた口から、縫い糸が垂れていた。糸は切れて、泥を噛んでいる。
「これ、直しますね」
「足は」
「足は、直しません」
「なんで」
「傷は寝れば治ります。靴は治らないので」
ミオさんは口を開けた。開けたまま、何も言わなかった。
「痛くないんですか」
「痛くない」
「痛いと思いますけど」
「痛くないってば」
「そうですか」
それ以上聞かなかった。痛くないことにしておきたい日は、誰にでもある。
俺は靴底に手を当てた。
音が先に来る。乾いて縮んだ革が、繊維の向きを思い出していく。ぱき、ぱき、と鳴った。
泥が粒になって落ちた。
切れた糸の先が、縫い穴のほうへ引かれていく。
ひと針ずつ、逆から縫われていった。
脂の匂いが戻ってきた。新しい脂ではない。何度も塗り重ねて、革に沈んだほうの匂いだ。
底が口を閉じた。閉じ目に指を這わせた。段差がない。
縫い目の糸は、少し色が濃かった。もとから、そういう糸だったのだと思う。
「はい、いいですよ」
俺は靴を揃えて置いた。
置いてから、もう片方も同じようにした。
こちらのほうが傷みが深かった。踏み方に癖がある。外の側ばかり減っていた。速く歩く人の減り方だ。
「ミオさん」
「なに」
「走る仕事、してましたね」
返事はなかった。
「すみません。余計なことでした」
「……別に」
ミオさんは、靴を見ていた。
しばらく見てから、両手で持ち上げた。
履かなかった。抱えた。
「……これ、あたしの」
「はい」
「新しくない?」
「新しくないです。もとの靴です」
「もと、こんなだった?」
「こんなだったんだと思います」
ミオさんは、靴を抱えたまま、俺を見た。
「弟子に、してください」
俺は鑢を置いた。
「弟子は、取れません」
「なんで」
「俺、教わったことしか教えられないんです」
「教わったこと、教えてよ」
「それはたぶん、ミオさんのほうが上手いです」
ミオさんの耳が後ろへ倒れた。
「じゃあ、教わってないことは誰に聞けばいいんニャ」
俺は答えられなかった。親方にも、聞いたことがない。
「わかりません」
「わかんないの」
「わかりません。すみません」
「謝らないでよ」
「はい」
「謝られると、怒れないでしょ」
「そうですね」
「ひとつ、伺ってもよろしいですか」
シルフィが、桶を置いて言った。
「なぜ、この方なのですか」
「この方?」
「あなたが、額をつけた相手のことです」
ミオさんは、少し黙った。
「……他に、誰もいなかったから」
シルフィは、それきり何も言わなかった。
言わずに、桶の水で布を絞った。
絞った布を、ミオさんの足元に置いた。
「拭いてください」
「うん」
「ご自分で拭けますね」
「拭ける」
「終わりましたら奥へ。粥がございます」
「いらない」
「置いておきます」
「いらないってば」
「置いておきます」
二度、同じことを言った。
この人は、押し返されると同じ言葉を出す。強くもしない。弱くもしない。
ミオさんが、先に目をそらした。
シルフィは、そういう置き方をする人だ。
さっきから、戸口のほうを見ないようにしていた。
土間に額をつける人を、この人は正面から見られない。
自分が、そうした側だからだと思う。
「あの」
「はい」
「今日は、泊まっていってください」
「弟子にしないのに?」
「弟子にするかと、泊まるのは別です」
「なんで別なの」
「宿がないので」
「……変なの」
「よく言われます」
ミオさんが布を取ろうとして、身をかがめた。
背中の包みが、肩から滑った。
結び目がゆるんでいた。三日ぶん、ゆるみっぱなしだったのだと思う。包みが土間で開いた。
中から、何かが転がり出た。
木だった。
手だ。
手首から先だけの木の手が、俺の足元まで転がってきた。




