第40話「弟子入り志願」
まだ暗いうちに目が覚めた。
癖だ。地下にいたころから、この刻限に手が動き出す。
工房の戸を開けると、外の空気が冷たかった。
夏が近いのに、朝だけは春の残りがある。
「おはようございます」
誰もいない工房に言った。
台の上は、片づいている。昨日の分は昨日のうちに終わらせた。
俺は、道具袋を出した。鑢が三本。荒いのと、中くらいと、細かいの。
「今日も、お願いします」
鑢の目に粉が詰まっている。真鍮の刷毛で、一本ずつ払っていった。細かいのが、いちばん減りが早い。
金槌の柄に、油を差した。この柄は親方が握っていたものだ。にぎりの真ん中が、少しへこんでいる。
俺の手だと、指一本ぶん位置がずれる。十八年、ずれたままだが、直そうと思ったことは、一度もない。
外が白んできたころ、看板を見に行った。
嫌な予感がした。板が掛かっていた。
——神匠ルークの工房。
「六度目ですね」
「六度目でございます」
シルフィが後ろに立っていた。
いつからいたのかは、聞かないことにしている。
「板、薄くなってますよ」
「新しい板を、ガドーさんにいただきました」
「用意がいいですね」
「用意しております」
俺は小刀を出した。
削って、彫った。
——修理屋ルーク。
字は前より上手くなったと思う。六度も彫ればそうなる。
「シルフィさん」
「はい」
「今度こそ、これでお願いします」
「善処いたします」
「それ、断るときの言い方ですよね」
「はい」
この人は、正直なところがある。
「シルフィさん」
「はい」
「王都には、何を持っていけばいいんでしょう」
「わたしが用意いたします」
「あの、俺も行くんですよね」
「ご一緒いたします」
「留守番は」
「いたしません」
「即答ですね」
「はい」
シルフィは新しい板を胸に抱えたまま、少しだけ笑った。
朝の見回りに出た。
列ができる前の道は、静かだ。
井戸のところで、水を汲んだ。二年前まで涸れていた井戸だ。底の石組みが崩れて、水を塞いでいただけだった。
いまは、朝いちばんに三人が並ぶ。水車が回っていた。半分だけ残っていたやつだ。板を足したらまた回りだした。
鍛冶場の煙突から煙が二本。弟子の三人が、もう火を入れている。槌の音の間が、ようやく揃ってきた。
「早いな」
「ガドーさんこそ」
「年寄りは、眠りが浅い」
「はい」
「王都へは、いつ発つ」
「二十日後です」
「留守は任せろ」
「ありがとうございます」
ガドーさんは、炉のほうを向いたまま言った。
「あんた、この村に来た日のことを覚えとるか」
「覚えてます」
「家が十一軒あった」
「はい。数えました」
「今は、何軒だ」
俺は、少し考えた。
「数えてないです」
「数えられんのだ」
「そうですか」
「増えすぎて、数えられん」
ガドーさんはそれだけ言った。俺は頭を下げて工房へ戻った。
ボルグさんが道の石を並べ直していた。
「おい」
「はい」
「王都、行くんだってな」
「はい」
「向こうの道は、うちより広いのか」
「広いと思います」
「そうか」
ボルグさんは、石をひとつ置いた。
「うちのほうが、まっすぐだ」
「そうですね」
コルが木札の束を抱えて走ってきた。
「おはよう!」
「おはようございます」
「今日ね、六十二枚あるよ」
「多いですね」
「かぞえた」
「全部ですか」
「ぜんぶ」
あの子が来た日には、三までしか言えなかった。
リナさんが戸口から手を振っていた。
「ルークさん、朝は食べた?」
「これからです」
「置いとくからね」
「はい」
ハンナさんは広場の台に座って日を浴びていた。
「ハンナさん、寒くないですか」
「寒い」
「じゃあ、中に」
「日が当たっとる」
「当たってますね」
「ならいい」
この人はいつもこうだ。
ベルタさんが、荷車を引いて通りかかった。
「あんた、旅の支度は」
「道具袋があります」
「それだけかい」
「それだけです」
「王都だよ」
「王都でも、直すものは同じだと思います」
ベルタさんは荷車を止めて、俺の顔をしばらく見ていた。
「……まあ、そうだね」
「はい」
「服だけは、あたしが見繕う」
「ありがとうございます」
この人たちは、二年前まで、五人でこの村にいた。
俺は、そのころのことを、ときどき思い出すが、特に何も感じない。
井戸は塞がっていたから開けた。家は屋根が落ちていたから直した。順番にやっただけだ。
やることが、たまたま多かった。それだけの話である。
工房に戻って、台に向かった。
一番の人が来るまで、まだ間がある。
俺は椅子を直していた。祭りの夜に拾った、三つ目の椅子だ。
「脚、揃いましたね」
椅子は何も言わない。
「これで、誰か座れますよ」
最後に座面の縁を撫でた。ささくれが、内側へ沈んだ。
「はい、いいですよ」
椅子を戸のそばに置いた。
待つ人が座る椅子は、いくつあってもいい。ボルグさんの長椅子は、もう四つとも埋まる。
「ルーク様」
「はい」
「本日、五十九件でございます」
「多いですね」
「多うございます」
「じゃあ、始めますか」
「はい」
シルフィが帳面を開き、俺は鑢を手に取った。
手に取ったところで、気がついた。今日も、昨日と同じだ。
朝に道具を研いで、来たものを直して、日が暮れたら鐘が鳴る。
十年前もこうだった。地下に窓がなかったぶん、鐘は聞こえなかったけれど。
俺は、たぶん、何も変わっていない。そう思って、鑢を置いたところで、外の空気が動いた。
戸が鳴った。叩く音だ。小さい。指の関節ではなく、手のひらで叩いている音だった。
二度。それから、三度。
「開いてますよ」
返事はなかった。
「どうぞ」
やはり、返事はない。
俺は、立って戸を開けた。
朝の光が、土間に落ちた。その光の中に、誰かがいた。
うずくまっている。子供だ。痩せていて、服は、ほとんど布の切れ端だった。
膝も、腕も、傷だらけだった。古い傷の上に、新しい傷が重なっている。
背中に、布の包みをひとつ背負っていた。
その子は、額を地面につけていた。
髪のあいだから、耳が二つ、突き出している。
猫の耳だった。
耳が、震えていた。
それから、その子は、地面に額をつけたまま、息を吸った。
「弟子にしてくださいニャ!!」




