第39話「王家の紋章」
祭りの翌朝、列は普段より長かった。
休んだ一日ぶんが、そのまま後ろへ足されている。
「四十一件でしたよね」
「五十三件になりました」
「増えましたね」
「増えました」
「一日休むと、増えるんですね」
「そういうものです」
シルフィは帳面をめくった。めくる指が、途中で止まった。
「ルーク様」
「はい」
「昨夜のことですが」
「はい」
「わたしは、酔っておりました」
「酔ってました?」
「……酔っておりました」
「そうですか」
俺は、鑢を出した。
シルフィは、しばらく帳面を見ていた。それから、小さな声で言った。
「一度しか申しませんので」
「はい」
「酔ってはおりませんでした」
俺は鑢を落とした。拾った。
昼前に道が静かになった。
列のざわめきが、前のほうから順に消えていく。
俺は戸口へ出た。
馬が四頭、並んで止まっていた。白と青。前に見たのと、同じ色だ。ただ、裾の紋が違った。
「ベルタさん」
「今度は本物だよ」
「わかるんですか」
「馬が違う」
「馬」
「あれ、荷を積んだことのない馬だ」
先頭の一人が鞍から降りて、外套の裾を手で払った。それから、こちらへ歩いてきた。
歩き方が、静かだった。
残りの三人は、馬から降りなかった。降りずに、道の左右へ散った。
列に並んだ人を、追い払いもしない。ただ、道を空けさせもしない。
前の二人とは、何もかもが違っていた。
「工房ルークで、相違ございませんか」
「はい」
「あなたが、ルーク殿でいらっしゃいますか」
「ルークです」
男はそこで膝を折った。片膝ではない。両膝だった。
「やめてください」
「務めでございます」
「困ります」
「困っていただきます」
この人までそれを言った。ベルタさんが、後ろで小さく笑った。
男は革の筒を出し、中から巻いた紙を抜いた。
紙は厚かった。角がひとつも折れていない。
「読み上げます」
「はい」
「アーデン王国、王都エルンハイムより」
列が後ろまで静まった。
「工房ルークの主、ルーク殿へ」
「はい」
「一月ののち、王都へ参られたし」
男はそこで紙を下ろした。
「以上でございます」
「以上ですか」
「以上でございます」
「行って、何をすればいいんですか」
「王都にて、申し上げます」
「ここでは、言えないんですか」
「言えません」
「そうですか」
俺は、少し考えた。
「わかりました。行きます」
男の肩が、大きく上下した。
息を、止めていたらしい。
「……よろしいのですか」
「はい」
「即答で」
「行けばいいんですよね」
「はい」
「じゃあ、行きます」
男は頭を下げた。下げたまま、しばらく上げなかった。
「ひとつ、伺ってもよろしいですか」
シルフィが前に出た。
「なんなりと」
「どれほどのものでございますか」
「申せません」
「大きさだけでも」
男は少し黙った。黙って、それから言った。
「石工では、直りませんでした」
「はい」
「鍛冶でも、直りませんでした」
「はい」
「宮廷の技師局が、三十年、手を入れております」
「三十年」
「はい」
ガドーさんが列の横で足を止めた。
「……三十年か」
「はい」
「そりゃ、直らんな」
「なぜ、そう仰います」
「三十年触ったなら、もう元の形がわからん」
男は答えなかった。
答えないのが、答えのようだった。
「ひとつだけ、申し上げます」
「はい」
「これは、村の仕事ではございません」
俺はうなずいた。うなずいてから、聞き返した。
「村じゃないと、何が違うんですか」
「……失礼を申しました」
「いえ」
「壊れているものは、壊れております」
「そうですね」
その言い方は、悪くなかった。
男たちが荷を積み直しているあいだに、ベルタさんが俺の袖を引いた。引き方がいつもより強かった。
「あんた」
「はい」
「今、何を受けたかわかってるかい」
「王都の仕事です」
「そうじゃない」
「違うんですか」
「宮廷技師局ってのはね」
ベルタさんが、声を落とした。
「あそこが直せないものは、この国じゃ誰も直せないってことなんだよ」
「そうなんですか」
「そうなんだよ」
「じゃあ、俺も無理かもしれないですね」
「……そこは、なんで急に弱気なんだい」
「見てみないと、わからないので」
ベルタさんは額を押さえた。
「あんた、ほんとに」
「はい」
「あんた、自分の値段を——いや、いい。なんでもない」
ベルタさんは言いかけてやめ、荷車のほうへ歩いていった。ハンナさんが、杖をついて横に立っていた。
「行くのか」
「はい」
「帰ってくるのか」
「帰ります」
「そうか」
ハンナさんはそれだけ言って、俺の腕を一度だけ叩いた。力が思ったより強かった。
男たちは、その日のうちに発った。
俺は道の途中まで送った。
戻ってきてから考えた。王都までは、歩いてどれくらいだろう。
ミルデを抜けるはずだ。ミルデまで二日と聞いた。
「シルフィさん」
「はい」
「王都って、遠いですか」
「遠うございます」
「そうですか」
俺は道具袋の紐を確かめた。鑢が三本、金槌がひとつ、油の壜。十年、これだけで足りている。
「遠出の仕事は初めてだなあ」
声に出してから、少し楽しくなった。
道具袋を担いで歩くのは、悪いことではない。追い出された日も、そうやって歩いた。
「留守は、ガドーさんに頼めますかね」
「頼めます」
「じゃあ、大丈夫ですね」
返事がなかった。
俺が振り返ると、シルフィが書状を両手で持っていた。
持って裏を返していた。封蝋が二つ押してある。
ひとつは、大きな赤い蝋だ。王冠を戴いた獅子。それが王家の紋だというのは、俺でも知っている。
もうひとつは小さかった。紙の下の端に、爪ほどの黒い蝋がある。
押してあるのは、獅子ではなかった。波が三本。その上に鍵が一本。
彫りが浅い。何度も押されて、型のほうが減っているのだと思う。古い型だ。少なくとも、去年や一昨年のものではない。
シルフィの指が、その蝋の上で止まっていた。指が動かなかった。
「シルフィさん」
返事はなかった。
「あの、それ、何かの印ですか」
シルフィが顔を上げた。
血の気が引いていた。




