第36話「お断りします」
最後の粒が噛み合った。
割れ目のあったところに線が一本残る。その線も、内側から埋まっていく。
石臼は、丸い一枚に戻った。
「はい、いいですよ」
俺は手を離した。
離してから、腰を伸ばした。石は重い。重いぶん、肩に来る。
「粉屋さん、どうぞー」
外でコルが呼んだ。
運び手が二人がかりで台から下ろしていく。下ろしながら、二人とも手を止めた。
「……鎹の穴が」
石と石を留めていた、コの字の釘の跡である。
「はい。塞がりました」
「塞がるのか」
「穴も、傷なので」
粉屋さんは石臼を撫でて、それから拝み始めた。
「やめてください」
「拝ませてくれ」
「困ります」
「困らせてくれ」
この村の人は、みんな同じ返しをする。俺は手を洗いに立った。
桶の水が白く濁った。石の粉だ。指の腹が、少しざらついている。石を触った日は、いつもこうなる。
夕方には戻る。だから、放っておく。
白と青の外套は、まだ立っていた。二人とも、立ったままだった。
「座ってください」
「けっこうだ」
「長椅子、外にありますよ」
「話を戻す」
「はい」
「勇者様がお呼びだ」
「聞きました」
「戻れ」
「あの」
「なんだ」
「その話、俺、断ってもいいですか」
背の高いほうの眉が、動いた。
「断る」
「はい」
「勇者様が、お前を助けてやると仰っているのだぞ」
「ありがとうございます」
「わかっているなら、荷をまとめろ」
「いえ、そうではなくて」
俺は、帳場のほうを見た。
「シルフィさん」
「はい」
「明日は」
「四十一件、入っております」
「明後日は」
「三十九件です」
「その次は」
「四十四件。うち三件が、ミルデからのお預かりです」
「ええと、来月は」
「半ばまで埋まっております」
俺は、指を折ってみた。折るまでもなかった。工房を開けて以来、空いている日が一日もない。
シルフィが、急ぐ人と急がない人を分けてくれている。それでも埋まる。断ると、その人はまた壊れたまま暮らすことになる。
「すみません」
「なんだ」
「予定が、埋まってて」
「予定」
「はい」
男は、しばらく黙っていた。
「お前は、話が通じないのか」
「通じてると思うんですけど」
「勇者様の団に戻れという話だ」
「はい」
「村の壺や鍋と、どちらが重いと聞いている」
「重さで決めてないです」
「では、何で決める」
「順番です」
若いほうが、外套の下で手を握るのが見えた。
「王家の後援を受けた団だぞ」
「立派ですね」
「立派、では済まん」
「はい」
「団の名で命じている」
「命じられても、明日は四十一件あるので」
男が、卓に手をついた。
「金なら出す」
「いくらですか」
「ルーク様」
「はい」
「黙っていてください」
「はい」
俺は、口を閉じた。
シルフィが帳面を閉じる音がした。それが、この工房の合図だ。
「もう一度だけ言う」
背の高いほうが、俺を見た。
「戻れ」
俺はその顔を見返した。十年、あの色の裾を下から見上げていたが、腹は立たなかった。
あのとき、ガイルさんの言ったことは、たぶん正しい。俺は魔物を倒せないし、索敵もできない。
北へ入るなら、人数は絞るものだ。ただ、それとこれとは、別の話だった。
「今さら戻れと言われても、お断りします」
工房が静かになった。外の列のざわめきだけが、戸の隙間から入ってきた。
「……なんと言った」
「お断りします」
「二度言うのか」
「はい」
「理由を言え」
「言いました」
「聞いていない」
「予定が、埋まってるので」
男の口が、半分開いた。
「怒ってはいないです」
「怒っていない」
「はい。恨んでもいないです」
「では、なぜ断る」
「その日、手が空いてないからです」
男は俺の顔を見ていた。
何かを探すような目だった。皮肉か、恨みか、たぶんそういうものを探していたのだと思う。見つからなかったのだろう。目が泳いだ。
勝ち誇るなら、返す言葉があった。恨むなら、詫びさせる手もあった。どちらでもない相手に、この人は言葉を持っていない。
俺のほうも持っていなかった。だから、黙っていた。
シルフィが、帳場から出てきた。
出てきて、俺の前に立った。半歩だけ前だった。半歩でも、前は前だ。
「使者の方」
「なんだ」
「名乗りを、いたします」
「聞いていない」
「聞いてください」
声は大きくならなかった。むしろ、いつもより静かだった。
「わたしは、大樹に仕える者でございます」
男の肩がわずかに落ちた。
「エルフの……」
「はい」
「なぜ、こんな村に」
「置いていただいております」
「置いて」
「この方に、脚を直していただきました」
シルフィは、片足を軽く前へ出した。布の下は見えない。見えないから、余計に静かだった。
男の目が、その足元へ落ちた。落ちて、しばらく上がらなかった。
「森の医術は、効きませんでした」
「……そうか」
「わたしは、死ぬ日を数えておりました」
「聞いている」
「いいえ。聞いておられません」
男は、答えなかった。
「この方に用のある方は、まずわたしに用がございます」
「どういう意味だ」
「順番をお取りください、という意味です」
「順番だと」
「はい。今日の分は、もう終わっております」
シルフィは頭を下げた。深くはない。ちょうど、客を送るときの角度だった。
「明朝、日の出にお越しください」
「我々は、使者だ」
「明朝、日の出にお越しください」
同じ言葉を、同じ調子で二度言った。二度言われると、シルフィさんは通す。俺は知っている。
どうやら、外の人にも効くらしい。
背の高いほうが、口を開いた。開いて、何も言わずに閉じた。脅す言葉は、いくらでもあったはずだ。ただ、脅す相手が見つからなかったのだと思う。
シルフィは、最後まで声を上げなかった。手も前で重ねたままだった。
二人は、出ていった。
出ていく前に、若いほうが足を止めて、壁を見上げた。
工房の奥の壁だ。板を張って、紙を貼ってある。
紙は壁の端から端まで、上から下まで貼られていた。どれも、封を切ったあとの依頼書だ。角に色のついた印が押してある。
鳥の印、塔の印、二匹の魚。獅子が二頭並んだものもあった。押し方も、紙の質も、ばらばらだった。厚い羊皮紙もあれば、薄い麻紙もある。
共通しているのは、どれも印が押してあることだけだ。村の人は印など押さない。押すのは、押す道具を持っている家の人だけである。
「……おい」
若いほうが、背の高いほうの袖を引いた。
「なんだ」
「あの紋」
「どれだ」
「右の、上から三枚目」
背の高いほうが、顔を上げた。上げたきり、動かなくなった。
「あの」
「なんだ」
「それ、順番の紙です」
「順番」
「はい。終わった分から、シルフィさんが貼っていくんです」
俺は壁を見た。
だいぶ増えたな、と思った。そろそろ、板を継ぎ足さないといけない。




