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第31話「概念も、物ですから」

「概念、ですか」


「はい」


「難しい言葉ですね」


「難しい話をしております」


 レンツさんは、戸の框に手をついたままだった。


 俺は、少し考えた。


 考えても、あの人の言っていることの半分もわからなかった。


「たぶん、そんな大したことはしてないです」


「そうでしょうか」


「紙に字が書いてあっただけなので」


「字、でございますか」


「はい。文字も物ですから」


 レンツさんの肩が下がった。


「概念も、物ですか」


「わからないです」


「わからない」


「俺、そういうのは苦手なので」


 俺は手のひらを見せた。油の匂いがまだ抜けていない。


「町の修理屋ですから」


 レンツさんは、何も言わなかった。


 言わずに、帽子をかぶり直して出ていった。


 外で馬車の音がした。


 その音が、ずいぶん長く聞こえていた。



 入れ替わりに、ボルグさんが顔を出した。


「おい」


「はい」


「便所だ」


「便所」


「戸が落ちた」


「いつですか」


「今朝」


「早く言ってください」


「言うと、順番の客より先になる」


 律儀な人だ、と思った。


「行きます」


 俺は、桶を持った。


 戸を直すのに桶は要らないが、板の下が濡れているはずだった。濡れた土は、そのままにすると腐る。


「ルーク様」


「はい」


「夕餉までに戻ってください」


「はい」


「大事な話をいたしますので」


「なんの話ですか」


「大事な話です」


 答えになっていなかった。


 俺は桶を持って出た。



 道の途中で、油の壜を忘れたことに気づいた。


 戸の蝶番に、少し差しておきたかった。


 戻った。


 工房の戸は、閉まっていた。


 閉まっているのに、中から声がしていた。


 三人の声だ。


 俺は戸の前で足を止めた。


 止めるつもりはなかったのだが、自分の名前が聞こえたので、止まってしまった。


「あたしは、あの書類を三度読んだ」


 ベルタさんの声だった。


「三度読んで、一箇所も崩せなかった」


「わしは、一度も読めん」


 ガドーさんだ。


「読めなくていいんだよ、あんたは」


「そうか」


「あれはね、書式で人を殺す商売なんだ」


「殺すのか」


「殺すよ。血は出ないけどね」


 俺は桶を下ろした。音が出ないように、そっと下ろした。


 立ち聞きは、よくない。


 親方にも言われた。人の家の壁の前で立ち止まるなと。だが、扉を開けて入るのも、なんだか違う気がした。


 中の三人は、俺がいないつもりで話している。


 入れば、その話が終わってしまう。終わらせないほうがいい話だ、という気がした。


「それを、あの人は」


 シルフィの声だった。


「壊れている、と言いました」


「そうだ」


「壊れている、と」


「一目でね」


 しばらく、誰もしゃべらなかった。


「あたしが怖いのは、そこじゃないよ」


「では、どこですか」


「あの人が、それを手間だと思ってることだ」


 ガドーさんが、低く笑った。


「金床のときも、そうだった」


「金床」


「三年、割れとった。誰も直せんかった」


「はい」


「あいつは、飯の前に直した」


「飯の前に」


「飯の前だ。そして、飯を食った」


 ベルタさんが、何か言おうとしてやめた気配がした。


「シルフィさん」


「はい」


「ひとつ、聞くよ」


「どうぞ」


「あの人が、この国は壊れてる、と思ったらどうなる」


 俺は、戸に手を当てた。なんの話をしているのか、わからなかった。


「……直します」


「だろうね」


「はい」


「王様が壊れてる、と思ったら」


「直します」


「誰が止める」


 答えが、なかった。


 長かった。


 外は、もう暗くなりかけていた。鍛冶場の煙突から、細い煙が上がっている。その煙が、風のない空へまっすぐ伸びていた。


 どこかで、コルの笑う声がした。


「掟があります」


 シルフィが、そう言った。


「持ち主に断らずには、直しません」


「掟を作ったのは、あんただろう」


「……はい」


「あの人が作ったんじゃない」


「はい」


「あんたが、言葉にした」


「はい」


 シルフィの声が少しだけ低くなった。


「わたしが、あの方に言葉を与えました」


「与えなかったら」


「同じことをなさったと思います。言葉がないだけで」


「そうだね」


「ただ、板に彫ってあれば」


「あれば」


「誰かが、それを読んで止められます」


 ベルタさんが、息を吐いた。


「……賢いね、あんた」


「わたしは、怖がっているだけです」


「怖いのかい」


「はい」


 俺は戸から手を離した。


 誰かが怖がっているなら、その場に行くべきだと思った。


 行くべきだと思ったが、足が動かなかった。


「悪意を持ったら、終わりだ」


 ガドーさんの声だった。


「あの方は、持ちません」


「持たんな」


「持たないから、恐ろしいのです」


「そうだな」


「悪意のある人は、止め方があります」


「ある」


「あの方には、ありません」


 しばらく、鍋の音だけがしていた。


「だから」


 シルフィが、そう言った。


 言い方はいつもの丁寧なままだった。ただ、少しだけ速かった。


「この人は、守らないといけないのです」


「そうだね」


「守る、というのは」


「囲うことじゃない」


「はい」


「囲ったら、あの人は腐るよ」


「はい」


 俺は少し安心した。話の中身は、やはりよくわからない。


 だが、守らないといけない、というところは、わかった気がした。


 俺は値段がつけられない。


 勘定ができない人間は、放っておくと騙される。ベルタさんが、前にそう言っていた。


 なるほど、と思った。


 三人が心配しているのは、そこだ。


 これから客が増えるのだから、なおさらだろう。迷惑をかけていると思った。


「わしは、鉄をやる」


 ガドーさんの声だ。


「あたしは、外から来るものを止める」


「わたしは」


 シルフィが、そこで一度、言葉を切った。


「あの方の前に立ちます」


「立って、どうするんだい」


「話をします」


「話かい」


「はい。あの方に用のある人は、まずわたしに用があることになります」


「そりゃ、たまらないね」


「たまらないようにいたします」


 ベルタさんが笑った。ガドーさんも笑った。


 笑い声を聞いて、少しほっとした。三人とも、機嫌が悪いわけではないらしい。


 俺は、桶を持ち上げた。油の壜は、また今度でいいことにした。


「で」


 ベルタさんが言った。


「本人は、今どこに」


 俺は戸口から一歩下がった。


「村の共同便所を、直しに」


 シルフィが、そう答えた。


 俺は桶を持ち直して、静かに歩き出した。行くことになっているらしい。


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