第30話「直してしまう」
「壊れている、と仰いましたか」
「はい」
「紙は破れておりませんが」
「紙は破れてないです」
「では、何が」
「文字がです」
レンツさんの手が、鞄の口で止まった。
止まったが、顔は変わらなかった。
「面白いことを仰る」
「すみません」
「謝る話ではございません」
ベルタさんが、身を乗り出した。
「あんた、どういう意味だい」
「うまく言えないです」
「言いな」
俺は束に指を置いたままだった。
指の下で、紙の繊維が引っ張られている。
書いた人が、無理をした跡だ。
「契約書って、何のために作るんですか」
「約束を残すためだよ」
「誰の約束ですか」
「二人のだ」
「はい」
俺は、一枚目を見た。
「これ、片方しか約束してないです」
場が静かになった。
ベルタさんが、口を開いて、閉じた。
「……そりゃそうだが」
「じゃあ、壊れてます」
「壊れてるってのは、そういう意味じゃないだろう」
「俺には、そういう意味です」
シルフィが帳面を置いた。置いた音が、やけに大きく響いた。
「レンツ様」
「はい」
「ひとつ、お許しをいただきたく存じます」
「なんでございましょう」
「この書類に、ルーク様が触れることを」
レンツさんは、少し考えた。
考えて、笑った。
初めて、声を出して笑った。
「触れる」
「はい」
「触れて、どうなさいます」
「直します」
「直る、と仰る」
「はい」
俺は、うなずいた。
うなずいたら、レンツさんの目が細くなった。
人が、こちらを馬鹿にするときの目だ。よく知っている。
「けっこうでございます」
「よろしいのですか」
「壊れているとお思いなら、お直しください」
「ありがとうございます」
「ただし、破れましたら」
「弁償します」
「金貨十枚でございます」
「わかりました」
ベルタさんが、俺の袖を掴んだ。
「やめときな」
「大丈夫です」
「紙だよ」
「紙も、物ですから」
俺は、束を両手で挟んだ。
この束が、まだ書かれる前を思う。
いや、それでは白紙になる。
書いた人が、書こうとしたときを思った。
二人が、同じ卓に向かって座って、同じことを言い合っている。その形を。
まず、蝋の印が動いた。赤い蝋が、いったん柔らかくなって、また締まった。
押された形は、変わらなかった。
次に、紙の端が伸びた。鞄で折れていた角が、繊維ごと立ち上がって、平らになる。
それから、字だった。
薄く浮いていたインクが、紙の上でわずかに震えた。
震えて、粒に分かれた。粒は、繊維の隙間へ落ちていった。
落ちて、下から色が濃くなる。
「……字が」
ベルタさんの声だった。
「字が、沈んでいくよ」
「はい」
「あんた、何を」
「もう少しです」
最後の紙の、押し込められていた細字が浮き上がった。
行ごと、紙から離れた。
字が並んだまま、上へ移った。移りながら、大きくなった。
本文と同じ背丈になって、余白の行へ収まった。
次に、六枚目が動いた。
当商会は三月前の通告をもって解約できる。その行の下が、空いている。
空いていた行に、字が生えた。
下から順に、インクが繊維を押し上げるように。
——工房ルークも、同じくできる。
「お待ちください」
レンツさんが、腰を浮かせた。
「触れないでください」
「触ってないですよ」
三枚目が動いた。
工房ルークは、当商会以外の何人とも取引をしてはならない。
その下に、また行が生えた。
——当商会は、工房ルークの求める鉄と炭を、市価にて絶やさず納める。
違約金の額が二列になった。同じ数字が二つ並んだ。
「シルフィさん」
「はい」
「この数字、大きいですか」
「大きいです」
「そうですか」
最後の紙の、定めなき事項は当商会の商慣行に従う、という行。
その行の、当商会の商慣行、というところだけが崩れた。
崩れて、粒になって、また並んだ。
——双方の合意により定める。
紙が静かになった。署名は動かなかった。蝋の印もそのままだった。
俺は、両手を離した。
「はい、いいですよ」
誰も動かなかった。
ベルタさんが、束を引き寄せた。
一枚目から、読み始める。
速かった。だが、途中から、指が震え出した。
「……レンツさん」
「はい」
「読むよ」
「どうぞ」
「前金、金貨百枚。これはそのまま」
「はい」
「鉄と炭は、市価で絶やさず納める」
「……はい」
「取引の独占は、双方」
「双方」
「解約も双方。三月前の通告で」
レンツさんは、答えなかった。
「違約金、金貨千枚。これも双方」
ベルタさんは、最後の紙をめくった。
「定めのないことは、二人で決める」
そこで、顔を上げた。
「……真っ当だ」
「そうですか」
「真っ当すぎて、気味が悪いよ」
レンツさんが、立ち上がった。
立ち上がって、束を掴んだ。
掴んで、めくった。速さが、ベルタさんの倍だった。
「これは」
「はい」
「これは、私の持ってまいりました書類ではございません」
「そうですか」
「違う書類でございます」
俺は、首を傾げた。
「紙、同じですけど」
「文が違います」
「あ、直したので」
レンツさんの手が、震えた。
束の下のほうを、指で押さえる。赤い蝋の印と、その横の名前だ。
「署名が」
「はい」
「私の署名が、そのままです」
「はい」
「なぜ直っていないのですか」
「壊れてなかったので」
俺は正直に答えた。署名は、あの人が自分で書いたものだ。
書きたいように書いてあった。直すところが、どこにもなかった。
「シルフィさん」
「はい」
「これ、結んでいいやつですか」
シルフィは、束を膝に置いた。
一枚ずつ、指で追った。
追い終わって、羽根ペンを取った。
「結びます」
「よろしいのですか」
「今の文面であれば、こちらに損はございません」
「お待ちください」
「お待ちしません」
シルフィの手が、動いた。
工房ルーク、と書き、その下に代理としてシルフィの名を並べた。
「成立でございます」
「困ります」
「困ってください」
この村の返しが、とうとう外へ出た。
レンツさんは、帽子を持ったまま動かなかった。
顔から、血の気が引いていく。
「……月に二度、鉄が参ります」
「ありがとうございます」
「絶やせば、金貨千枚でございます」
「大変ですね」
「大変でございます」
帽子をかぶって、戸口まで歩いた。
歩いて、そこで止まった。
振り返らずに、言った。
「ルーク殿」
「はい」
「私は、十九年この仕事をしております」
「長いですね」
「怒鳴られたことも、殴られたこともございます」
「痛かったでしょうね」
「痛うございました」
レンツさんは、戸の框に手をついた。
「今日は、どちらもございません」
「はい」
「一度も、声を荒らげられませんでした」
「はい」
「そのほうが、恐ろしゅうございます」
それから、レンツさんは首だけを回した。
目だけが、こちらを見ていた。
「あなた、今、契約という概念を直しましたね」




