第29話「壊れた契約書」
男は、翌日の昼に入ってきた。
順番を、きちんと待った。
列に並んで、地面に座って、パンを食べていた。
「お待たせしました」
「いいえ。整った列でした」
男は、帽子を膝に置いて座った。
「レンツと申します」
「ルークです」
「ゼルダン商会の、代理人でございます」
その名で、ベルタさんが土間から顔を出した。
出したまま、入ってこなかった。
「壊れたもの、お持ちですか」
「持っておりません」
「じゃあ、俺の仕事ではないですね」
「本日は、紙をお持ちしました」
レンツさんは、鞄から束を出した。
厚い紙が、十枚ほど重ねてある。下のほうに、赤い蝋の印が押してあった。
「契約書でございます」
「読めないと思います」
「読み上げます」
「お願いします」
レンツさんは、指を紙の上に置いた。
読み方が上手だった。声が低くて、耳に入りやすい。
「まず、前金として金貨百枚」
「多いです」
「少のうございます」
ここでも同じやりとりになった。
「鉄と炭を、月に二度お届けします」
「助かります」
「王都に、店をひとつご用意します」
「行かないですけど」
「置くだけで結構です」
ベルタさんが、土間から入ってきた。
入ってきて、俺の横の床几に音を立てて座った。
「見せな」
「どうぞ」
レンツさんは、束をベルタさんのほうへ押した。
嫌がらなかった。嫌がらないのが、少し気になった。
この人は、爪が綺麗だった。
商人の手ではない。荷を担いだことのない手だ。ベルタさんの手には、柄の跡が残っている。
この人の指の腹には、羽根ペンの胼胝がひとつだけあった。
書くことだけで食っている人の手だと思った。
ベルタさんは、一枚目から読んだ。
速かった。指で押さえながら、行を落としていく。
三枚目で、指が止まった。
「レンツさん」
「はい」
「この条だ」
「どの条でございましょう」
「工房ルークは、当商会以外の何人とも取引をしてはならない」
「独占でございます。前金は、そのぶんです」
「村の連中の鍋は」
「取引に当たりません。ご心配なく」
「王都のギルドは」
「当商会を通していただきます」
ベルタさんが、鼻から息を吐いた。
息を吐いてから、また読み始めた。
六枚目で、また止まった。
「解約の条だ」
「はい」
「当商会は、三月前の通告をもって解約できる」
「はい」
「工房ルークは」
「書いてございません」
「書いてないのは、できないってことだろう」
「そう読むことも、できます」
ベルタさんは、束を叩いた。
「読ませたいんだろう」
「私は、書式のとおりに作っただけでございます」
「どこの書式だい」
「王都の、商慣行に従う書式です」
俺は、二人を交互に見ていた。
言葉は全部わかるのに、話がまったくわからない。
こういうのは、勇者の団の会計の人と話しているときの感じに似ていた。
「シルフィさん」
「はい」
「わかりますか」
「わかりません」
「そうですか」
「悔しいですが、わかりません」
シルフィは、帳面を膝に置いて、じっと束を見ていた。
字は追えている。だが、追えるのと、わかるのは違うらしい。
「あと、これだ」
ベルタさんが、最後の紙を指した。
「本契約に定めなき事項は、当商会の商慣行に従う」
「はい」
「定めなき事項ってのは、何だい」
「定めていないことでございます」
「答えになってないよ」
「答えになっております」
レンツさんは、うすく笑った。
怒鳴らなかった。声も上げなかった。
ずっと、丁寧なままだった。
「ベルタ様」
「あたしの名を知ってるのかい」
「南街道の方は、みな存じております」
「そうかい」
「不当な条は、ひとつもございません」
ベルタさんが、黙った。
黙って、束を最初から読み直した。
二度目のほうが、時間がかかっていた。
「……ないね」
「ございません」
「一条ずつ読めば、どこも合法だ」
「そのとおりでございます」
「全部を並べると、首が絞まる」
「そう感じられるのは、ご自由です」
レンツさんは、指を組んだ。
「ですが、どこが不当か、仰っていただけますか」
ベルタさんは、答えなかった。
答えられないのだ、とわかった。
この人が黙るところを、俺は初めて見た。
車輪のときも、箱のときも、値の話のときも、ずっとしゃべっていた人だ。
その人が、束の上に手を置いたまま、口を結んでいる。
指の関節が、白くなっていた。
「ひとつ、申し添えます」
「なんだい」
「南街道の荷は、我が商会が握っております」
「知ってるよ」
「鉄も、炭も、塩も」
「知ってると言ってるだろう」
「お断りになるのは、ご自由でございます」
レンツさんは、そこで俺のほうを見た。
「ただ、明日から、鉄が来なくなるかもしれません」
「かもしれない、ですか」
「世の中のことは、わかりませんので」
俺は少し困った。
鉄が来ないと、ガドーさんが困る。
ガドーさんは、三年ぶりに火を入れたばかりだ。あの炉が、また冷える。
困る顔を、見たくなかった。
鍛冶場のほうから、槌の音がしていた。
その音が、ここまで届いている。
「ルーク様」
「はい」
「署名は、なさらないでください」
「はい」
「ルークさん」
「はい」
「あたしも、同じ意見だ」
二人が、揃って言った。揃って言うのは、これで二度目だ。
「わかりました」
「では、本日は結びません」
レンツさんは、あっさり引いた。
「明日、また参ります」
「順番、待たれますか」
「待ちます」
「律儀な方ですね」
「商いですので」
レンツさんは、束を鞄へ戻そうとした。
その動きが、俺の前を通った。
紙の端が、俺の指に触れた。
触れて、止まった。
止めたのは、俺だ。
「あの」
「はい」
俺は、束を見ていた。
紙は、いい紙だった。厚くて、目が詰まっている。
だが、字がおかしかった。
うまく言えない。
行の並びが揃っているのに、そこだけ紙の繊維が引っ張られている。
薄い字が、繊維の上に浮いたままになっていて、沈んでいない。
最後の紙の下のほうに、小さすぎる字が寄せてあった。
寄せてあるというより、押し込められていた。
押し込められた行の下で、紙が少しだけ膨らんでいる。
「ルーク様」
「はい」
「どうかされましたか」
俺は、指を離さなかった。
離さずに、言った。
「あ、この書類、文言が壊れてますね」」




