第23話「【幕間】噂が出ていく」
ベルタが村を出たのは、夜が明けきる前だった。
荷車は、勝手に進んだ。
勝手にというのは言いすぎだが、そう感じるほど軽かった。八年引いた車だ。手のひらが、重さを覚えている。その重さがない。
坂の下りで、一度だけ走らせてしまった。
「……冗談じゃないよ」
柄を握り直して、ベルタは笑った。
笑ってから、少し黙った。
昨日から、頭の中で数字が回り続けている。
銀貨五枚。あれを、あの男は「多い」と言った。二度も言った。
保冷箱の中身は、いま、霜を張っている。
王都の店なら、あの箱ひとつで金貨十枚をつける。つけたうえで、直せないと言って突き返す。
「……出られなくなるよ、ほんとに」
誰にともなく、ベルタは言った。
昼過ぎに、宿場へ着いた。
街道沿いの、宿と厩と鍛冶が一軒ずつという程度の場所だ。
主人が、荷車を見て目を丸くした。
「あんた、それ、買い替えたのか」
「直したんだよ」
「どこでだ」
「オルトだ」
主人の手が止まった。
「オルトってのは、あのオルトか」
「そうだよ」
「あそこは死んどるぞ」
「生きてるよ。人が五人いる」
「馬鹿を言え」
「井戸から水が出てる」
主人が口を開けた。開けたまま、しばらく閉じなかった。
「……水が」
「甘い水だ。あたしも飲んだ」
「二十年、涸れとったんだぞ」
「石が崩れて詰まってただけだとさ」
「誰がそんなことを」
「若い男だ。ルークって名乗った」
その名で、主人の顔が変わった。
「痩せた、背の高い兄ちゃんか」
「知ってるのかい」
「春の終わりに、うちの軒先で地図を広げとった」
「へえ」
「オルトはどこかと聞くから、やめとけと言った」
「言ったのかい」
「言った。何もないぞと」
主人は板場の柱を掴んだ。
「そうしたら、何もないのはいいですね、と抜かした」
ベルタは、腹の底から笑った。
笑いながら、荷台から保冷箱を出した。
蓋を開けて、主人の手を突っ込ませる。
「……冷たい」
「三月前から死んでた箱だよ」
「魔道具屋は」
「刻印が消えたら直せないと言われた」
「直っとるじゃないか」
「そう、直ってるんだよ」
その晩、宿の土間には十人ばかりが集まった。
ベルタは同じ話を三度した。
三度目には、聞き手のほうが先を言うようになっていた。
「触っただけで、直るんだろう」
「触ってはいたね」
「見ただけで直るとも聞いたぞ」
「誰から聞いたんだい」
「いま、そこの若いのが言った」
ベルタは訂正しようとして、やめた。
訂正の言葉が、うまく組み立てられなかったからだ。
あの男は確かに触っていた。触ってはいたが、そのあと何をしたのかが、まるでわからない。
ミルデに着いたのは、二日後だった。
地方都市といっても、通りが三本あるだけの町だ。だが、王都へ抜ける街道はここを通る。
ここに荷を降ろすと、話は勝手に歩き出す。
ベルタは、まず車大工のところへ行った。
義理だった。八年、世話になっている。
「親方、悪いね」
「なんだ、輪の話か」
「直っちまった」
「どこの誰が打ち直した」
「打ち直してない」
「意味がわからん」
親方は、荷車の下に潜り込んだ。
しばらく出てこなかった。
出てきたとき、顔が土気色だった。
「……箍の縮み方が、おかしい」
「そうかい」
「熱を入れて締めた縮み方じゃない。これは、縮む前に戻っとる」
「あんたにはわかるのかい」
「わかるから、気味が悪いんだ」
親方は、手を拭いた。
「そいつは、どこにいる」
その日のうちに、話は酒場へ移った。
酒場から宿へ。宿から荷役の詰所へ。
三日目に、ベルタは自分の話を他人の口から聞いた。
しかも、知らない話になっていた。
「廃村に、神様みたいなのがいるらしいぞ」
「聞いた聞いた。エルフの聖女がかしずいてるんだと」
「死にかけの聖女を、生き返らせたんだろ」
「村ひとつを、一晩で建て直したって話だ」
「一晩じゃないよ」
思わず口を挟んだが、誰も聞いていなかった。
挟んだ言葉が、そのまま次の話の材料にされた。
「ほら、あの人が知ってるんだ」
「一晩じゃないなら、何日だい」
「……知らないよ」
ベルタは、麦酒の杯を置いた。
知らない、というのが正直なところだった。
自分が見たのは、車輪と、箱だけだ。あとは全部、村の連中から聞いた。
だが、村の連中は嘘をつく顔をしていなかった。
六十過ぎの鍛冶が、左手の指を五本とも動かして見せた。あれが嘘なら、世の中に本当はない。
王都エルンハイムまで、さらに三日。
商業ギルドの一階は、いつもどおり人で埋まっていた。
荷の受け渡し、手形の書き換え、揉め事の仲裁。それが一日じゅう続く。
ベルタは列に並び、順番が来ると、いつもの記録係の前に荷の目録を置いた。
「南街道、上りの分だ」
「拝見します」
記録係は、若い男だった。羽根を持つ手が速い。
目録を読み終えて、顔を上げた。
「ベルタさん」
「なんだい」
「妙な話が、街道から上がってきています」
「へえ」
「オルトという村をご存じですか」
ベルタは、少し笑った。
「そこから来たんだよ」
羽根が、止まった。
「……いま、なんと」
「そこから来た。十日ばかり前だ」
記録係は、脇の帳面を引き寄せた。
新しい頁を開く。
「聞かせてください」
「長いよ」
「かまいません」
ベルタは、話した。
できるだけ、自分の目で見たことだけを話した。車輪と、保冷箱と、村の五人と、井戸の水。
だが、話し終えると、記録係の帳面には余計なものが並んでいた。
街道の各所から上がってきた分を、書き足していったのだ。
「触れたものが本来の姿に戻る」
「そんなこと言ってないよ」
「宿場からの分です」
「……そうかい」
「壊れたものであれば、何でも」
「何でもとは言ってない」
「では、どこまでですか」
ベルタは、答えられなかった。どこまで、という線が、あの村では見えなかった。
記録係は、帳面の欄外に短く書いた。
——オルトの修理屋。
それから、羽根を置いた。
「上へ回します」
「大げさだね」
「いいえ」
若い男は、ふう、と息を吐いた。
「この規格外れが本当なら、値のつけ方が変わります」
ベルタは、その言い方を覚えておくことにした。
商人の言葉だと思った。
窓から、夕方の光が入っていた。広間の隅に、長椅子がある。そこに、男がひとり座っていた。
外套の下は旅装。膝の上に、布に包んだ長いものを横たえている。
包みは、途中で不自然に折れていた。布の合わせ目から、断面が覗いている。白い刃だった。断ち切られた面が、光を鈍く返している。
男の襟には、白金の徽章がついていた。国に数えるほどしかいない位の、そのひとつ下だ。
男は、ずっと動かずにいた。
だが、記録係の声が「修理屋」と言ったところで、顔が上がった。
外套の影から、目だけが見えた。
「……直す、と言ったか」




