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第21話「行商人ベルタ」

 近づいてくるのは、女の人だった。


 三十くらいだろうか。日に焼けていて腕が太い。


 背に大きな籠を負って、片手で荷車を引いていた。


 その荷車が、傾いている。


 右の車輪が、半分潰れていた。


 輪が割れている。それを引きずったまま、石畳を進んできたのだ。


 地面に、深い筋が残っていた。


「こんにちは」


「……あんた、どこから湧いた」


 挨拶の返しではなかった。


 女の人は、俺を見て、道標を見て、また俺を見た。


「この道標」


「はい」


「昨日、なかったよ」


「さっき、直しました」


「……直した」


「はい」


「立ってなかったんだよ。十年、根元から折れてた」


「腐ってましたね」


 女の人は、荷車の柄を握ったまま動かなかった。


 握り方が、硬い。


 その気持ちはわかる。俺も、知らない土地でいきなり話しかけられたら身構える。


「あの、名乗ってませんでした。ルークです」


「……ベルタだ」


「ベルタさん」


「行商をやってる。この街道は八年通ってる」


「そうですか」


「八年、この先に村はない」


「あります」


「ないよ」


「ありますよ。四人います」


 ベルタさんは、俺の後ろのシルフィを見た。


 見て、口を開けて、閉じた。


「……五人か」


「あ、そうですね。五人でした」


「あんた、数を間違えるのかい」


「たまに間違えます」


 俺は、荷車のほうへしゃがんだ。


「これ、ひどいですね」


「三日前に、坂で石を噛んだ」


「引きずってきたんですか」


「置いていくわけにいかないだろ」


「重かったでしょう」


「重いね」


「直しましょうか」


 ベルタさんが、片眉を上げた。


「直す」


「はい」


「車大工でも二日かかるよ」


「輪と、中の棒ですよね」


「ほかにもある。外の鉄の輪が伸びてる」


「あー、ほんとですね」


「わかるのかい」


「音でわかります」


 俺は、割れた輪に両手を置いた。


「触りますね」


「あの」


「はい」


「うちには、金がない」


「あとで考えましょう」


「あんた、商売下手だね」


 なんのことか、よくわからなかった。


 俺は、目を閉じた。


 この輪が、まだ丸かったころ。轆轤で削られて、輻が一本ずつ打ち込まれて、熱い箍が締まったころを思う。


 三日前の、朝を。


 木が、動いた。


 割れ口の繊維が伸びて、噛み合う。潰れていた円が、外へ押し返されるように丸くなった。


 折れた輻が、下から順に立ち上がる。


 三本とも、まっすぐになった。


 外側の鉄の箍が、鳴った。


 伸びていた鉄が縮んで、輪を締める。錆が薄片になって剥がれ、下から黒い鉄が出た。


 最後に、軸受けの油の匂いが戻った。


「はい、いいですよ」


 俺は、立ち上がった。


 ベルタさんは、動かなかった。


「回してみてください」


「……」


「あ、地面から浮かせないと回りませんね」


 俺は荷車の後ろを持ち上げた。


 車輪が、空で回った。


 からから、と軽い音がする。


 止まるまでに、ずいぶんかかった。


「……八年」


「はい」


「この車、八年引いてる」


「はい」


「新車のときも、こんなに回らなかった」


「あ、それは、たぶん」


 言いかけて、やめた。


 新車のとき、というのは、たぶん買った日の話だ。作った日ではない。


 説明が面倒なので、黙っておくことにした。


「いくらだ」


「え」


「いくら払えばいい」


「あとで考えましょう」


「あんた、それ二度目だよ」


 ベルタさんは、荷車の縁を掴んだ。


 掴んで、少し考える顔をした。


 それから、荷台の奥から、四角い箱を引き出した。


 木の箱だ。鉄の帯が回してあって、蓋に取っ手がついている。


「これも、見てくれるかい」


「はい」


「保冷箱だ。中に石が入ってる」


「石」


「魔石だよ。刻んだ線に力が乗って、中が冷える」


「へえ」


「三月前から、冷えない」


 俺は、蓋を開けた。


 中は、二重になっている。奥の壁に、平たい石が嵌めてあった。


 白っぽい石だ。表面に、細い線が渦を描いている。


 その線が、途中で消えていた。


「線、薄くなってますね」


「王都の魔道具屋に見せた」


「なんて言われましたか」


「刻印が消えたものは、直せない、と」


「そうなんですか」


「刻み直すと、別のものになるんだと」


「あー」


 なるほど、と思った。


 彫り直すのは、直すのとは違う。木彫りの馬と同じ話だ。


「じゃあ、戻しますね」


「戻す?」


「はい。消えたのを、消える前にします」


「……できるのかい」


「石ですよね」


「石だよ」


「なら、たぶん」


 俺は、石に指を当てた。


 この石が、まだ線を持っていたころ。彫った人の刃先が渦をなぞって、粉が落ちて、最後に息で吹かれたころを思う。


 石の表面が、白くなった。


 白い粉が、内側から押し出されて浮く。浮いて、散った。


 散った下から、線が出てきた。


 細い溝が、渦の外から内へ、順につながっていく。途切れていたところが、閉じた。最後に、渦の中心へ点が落ちた。


 箱の中の空気が、下へ沈んだ。


 蓋の縁に、白いものがついた。


 霜だ。


「はい、いいですよ」


 俺は、蓋を閉めた。


 ベルタさんは、箱に手を伸ばした。


 伸ばして、途中で引っ込めた。


「……冷たい」


「効いてますね」


「効いてる、じゃないよ」


 声が、裏返っていた。


「これ、買ったとき、いくらしたと思う」


「銅貨、五枚くらいですか」


「金貨三枚だ」


「……え」


「中古で、だ」


 俺は、箱を見た。


 木の箱だ。鉄の帯が回してあって、蓋に取っ手がついている。


 どう見ても、木の箱だった。


「新品なら、金貨十枚は下らない」


「そんなにするんですか」


「するよ」


「へえ」


「へえ、じゃないよ」


 ベルタさんは、額を押さえた。


 押さえた指のあいだから、俺のほうを見ている。


 商人の目だ。品物を見るときの目を、人に向けている。


「あんた、いま、この石をどうした」


「戻しました」


「王都の魔道具屋が、匙を投げたやつだよ」


「そうみたいですね」


「そうみたいですね、じゃないんだよ」


 ベルタさんは、しゃがみ込んだ。


 地面に手をついて、しばらく息をしていた。


「車輪と、これと」


「はい」


「あんた、これで、いくら取るつもりだ」


「あとで考えましょう」


「三度目だよ!」


 叫ばれた。


 叫ばれる理由が、やはりわからない。


 ベルタさんは、地面に座ったまま、俺を見上げた。


 目が、真剣だった。


 商売の話をしているときの顔ではない。もっと別の、困っている顔だった。


「あんた……」


「はい」


「この村から出ないほうがいいよ」


「え」


「いや」


 ベルタさんは、首を振った。


「出られなくなる」

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