第17話「打てる手」
差し出された手を、俺は見た。見ただけで、触らなかった。
「あの」
「……」
「言ってもらえますか」
ガドーの眉が動いた。
「何を」
「口で、言ってください」
「見ればわかるだろう」
「わかります」
「なら」
「でも、要るんです」
俺は自分の手を後ろへ回した。回さないと、触ってしまいそうだった。
「これ、あなたの手なので」
「……」
「勝手に触るのは、盗みと同じなので」
言ってから、少し強かったかと思った。
だが、引っ込める言葉が思いつかなかった。
ガドーは、長いこと黙っていた。
差し出した手が、少しずつ下がっていく。下がって、途中で止まった。
「……直してくれ」
「はい」
「この手を、直してくれ」
「はい」
俺は、両手でその手を受けた。
軽かった。三年間使っていない手は、こんなに軽くなるのか。
「三年前ですね」
「落ちてきた」
「片割れが」
「押さえようとした」
「押さえたんですか」
「馬鹿だからな」
「……はい」
俺は、潰れた指を一本ずつ見た。
第一関節から先が、内へ折れて固まっている。骨が砕けて、砕けたまま繋がった形だ。
爪が二枚、根から失われている。
治すのは、たぶん無理だ。
だが、これは、そういう話ではない。
「では、戻します」
目を閉じた。
この手が、まだ潰れていなかったころ。四代ぶんの柄を握って、指の腹に硬い皮ができていたころを思う。
三年前の冬の、その一つ前の朝を。
指が、動いた。
自分から動いたのではない。内側から、押し上げられて動いた。
折れて固まっていた関節が、ゆっくりと伸びる。
骨が位置を思い出していく。砕けた欠片が互いを探して、噛み合う音が皮膚越しに小さくした。
黒く沈んでいた爪床の色が変わった。黒から灰へ。灰から薄い桜色へ。
血が通っていく。手首から指先へ、根が伸びるように筋が浮いた。
爪が生えた。生え揃うとき、乾いた紙を撫でるような音がする。
最後に指の腹に皮ができた。厚くて、硬い、槌を握る手の皮だ。
「はい、いいですよ」
俺は、手を離した。
ガドーは手を上げなかった。目の前にあるのに上げなかった。
「……」
「動かしてみてください」
「……」
「大丈夫ですよ」
人差し指が、曲がった。
次に、中指。
薬指と小指が、一緒に曲がった。
五本が、握られた。
握って、開いた。
もう一度、握った。
「……ああ」
声が出た。
それは、さっき金床のときに出た声と、同じ形をしていた。
だが、続きがあった。
「あ、ああ」
ガドーは膝から落ちた。
両手を床につく。左の手のひらが、床の埃を掴んだ。
掴めていた。
「うああ」
それきり、言葉にならなかった。
六十過ぎの男が、床に額をつけて泣いていた。声は途中から高くなった。子供のような泣き方だった。
俺は外へ出た。
こういうときに、見ているのはよくない。
戸口でシルフィとすれ違った。彼女も、何も言わずに外へ出てきた。
「あの」
「はい」
「泣いてますね」
「はい」
「俺、何か悪いことしましたか」
「していません」
「そうですか」
「……ルーク様」
「はい」
「あとで、少しお話をします」
「怒られますか」
「いいえ」
シルフィは、そこで笑った。
「褒めます」
「いらないです」
「いります」
「なんでですか」
「あの方は、二十年ここにいました」
「はい」
「誰も来ない村で、道具を拭いて待っていました」
「そうみたいですね」
「何を待っていたと思いますか」
「……人、ですか」
「いいえ」
シルフィは、鍛冶場の戸のほうを見た。
「打てる日を、です」
俺は、少し黙った。うまい言い方をする人だと思った。
「じゃあ、待ったかいがありましたね」
「はい」
「よかったです」
昼を過ぎて、ガドーが出てきた。
目が赤い。だが、背筋が伸びていた。
入っていったときより、頭ひとつぶん背が高く見えた。
「あんた」
「はい」
「わしは、あんたを疑った」
「はい」
「疑って当然だと、いまも思っとる」
「はい」
「だが、詫びる」
「いえ」
「頭は下げん」
「はい」
「下げると、また泣く」
「じゃあ、やめましょう」
ガドーは、ふん、と鼻を鳴らした。
それから、左手を開いてしばらく見ていた。
「この手でな」
「はい」
「四代ぶんを、打ってきた」
「そうですね」
「三年、袖に入れとった」
俺は、うなずいた。
うなずくくらいしか、できることがなかった。
「屋根がない」
「はい」
「炉に、雨が入る」
「直しましょうか」
「頼む」
早かった。
さっきまで疑っていた人とは思えない切り替えだった。
「梁からいきますね」
俺は落ちた梁に手を置いた。
繊維が巻き戻り、垂れていた木が水平に戻る。屋根板が地面から浮いて、順に並んだ。
樹脂の匂いがした。
「ふいごも見ますね」
「革が破れとる」
「あ、ほんとですね」
「三年、放っといた」
「戻します」
乾いて縮んだ革が、しなやかになる。裂け目が閉じて、縫い目の糸が張った。
試しに踏むと、風が出た。
炉の口の灰が、ふわりと舞う。
「はい、いいですよ」
ガドーは、炭を出してきた。
物置の奥に、積んだままだったという。
「湿気とる」
「乾かしますか」
「乾かす」
「そこも、直しましょうか」
「炭は直すな」
「はい」
叱られた。
理由は聞かなかった。この人が言うなら、そうなのだろう。
ガドーは炭を組んで、火口を作った。
火打ちを、右手で持った。
左手で、火口を押さえた。
押さえられていた。
二度、打った。
三度目で、細い煙が上がった。
外へ出て、俺は空を見た。
煙突から、白い煙が立っていた。
まっすぐ上がっている。風がないからだ。
二十年ぶりの煙だと思うと、少し変な気持ちになった。
シルフィが、隣に立った。
「煙です」
「はい」
「家から煙が出ていると、人が住んでいるように見えます」
「住んでますよ」
「はい」
「三人います」
「……はい」
鍛冶場の中で、音がした。
かん、と高い音だ。それから、かん、かん、と続く。
拍が、揃っている。三年ぶりとは思えない拍だった。
「何を打ってるんでしょうね」
「聞いてまいります」
シルフィが行って、すぐ戻ってきた。
「釘だそうです」
「釘」
「はい。家を直すなら要る、と」
「……そうですね」
俺は笑った。
その笑いの途中で、音が混じった。
槌の音ではない。もっと低くて、重い音だ。
軋みながら、こちらへ近づいてくる。
森の外の、道のあったあたりからだった。
車輪だ。荷車が来る。




