第16話「折れた金床」
俺は、床に膝をついた。
「こんにちは」
金床に言う。
背中で、ガドーが息を吸う音がした。
「あんた、いま」
「あ、癖です」
「物に喋るのか」
「はい」
「……そうか」
思ったほど、驚かれなかった。鍛冶をやる人には、たまにいる。俺は少しだけうれしくなった。
割れ口に指を這わせる。
斜めに走った面は、ざらざらしていた。ざらざらの中に、細かい艶が散っている。
鉄が自分から割れた面だ。切られた面ではない。
「いつ、折れたんですか」
「三年前の冬だ」
「冬ですか」
「明け方だった」
ガドーの声は平らだった。
「何を打ってたんですか」
「宿場の注文だ。鎌を二十」
「二十」
「納めが遅れとった」
「急いでたんですね」
「急いだ」
それきり、少し黙った。
俺は待った。こういう話は、待てば出てくる。
「冷えきった金床に、熱いものを載せた」
「あー」
「わかるか」
「わかります」
「わしが下手を打った」
「はい」
慰めなかった。
慰めると、この人は怒ると思った。
「これ、ずいぶん古いですね」
「祖父の、そのまた親の代のものだ」
「そんなに」
「四代、この村で打っとる」
「じゃあ、この村の鉄は、全部ここを通ったんですね」
「……そうだ」
「三年、どうしてたんですか」
「どうもせん」
「鍛冶は」
「打てん」
「他の金床は」
「ない」
「借りるとか」
「借りる相手がおらん」
そうだった。
この村には、誰もいない。
「じゃあ、三年」
「一度も火を入れとらん」
「……そうですか」
「炉の灰も、掻かんかった」
「あ」
「掻いたら、また入れたくなる」
返事はしなかった。
ガドーは割れた片割れのほうを見ていた。床に転がったまま、三年動いていない塊だ。
その塊のまわりだけ、埃の積もり方が違っていた。
誰かが、何度も近くを歩いた跡だった。
「直せますよ」
俺がそう言うと、ガドーが振り返った。
「鉄は継げん」
「はい」
「継いだ金床は音が死ぬ」
「そうですね」
「わかっとるのか」
「わかります。継ぎ目で音が止まりますから」
ガドーの目が、細くなった。
「では、何を言っとる」
「継ぐんじゃないんです」
「ほう」
「割れる前に、戻すだけです」
「同じことだ」
「たぶん、違います」
俺は片割れを両手で抱えた。
重い。腰から持ち上げて、割れ口の前まで運ぶ。
面と面を、そっと合わせた。
合わせると、ぴたりと来た。当たり前だ。もとは一つだったのだから。
「押さえててもらえますか」
「……わしがか」
「はい。倒れると危ないので」
ガドーは、右手だけを出して片割れを押さえた。
左手は、袖の中に入ったままだった。
さっきから、ずっとそうだ。
俺は何も言わなかった。
「どのくらいかかる」
「わからないです」
「わからん、とは」
「大きいので、鍬よりは長いと思います」
「鍬」
「鍬は、すぐ終わるので」
「……あんた、鍬を直したことがあるのか」
「たくさんあります」
「鍬とこれを、並べて言うな」
「すみません」
怒られた。
だが、声に力が戻っている。さっきよりずっといい。
「触りますね」
「触れ」
俺は割れ口をまたぐように両手を置いた。目を閉じる。
この鉄が、まだ割れていなかったころ。四代ぶんの槌がここに落ちて、火花が散って、朝ごとに水の匂いがしていたころを思う。
冬の明け方の、その一つ前の朝を。
鉄が鳴いた。
音ではない。手のひらに来る、細かい震えだ。
割れ口の艶が動いた。
ざらざらの粒が、一斉に向きを変える。粒と粒が、互いの相手を探して、噛んだ。
噛んだところから、隙間が消えていく。線が閉じた。
黒ずんでいた染みが、外へ押し出されるように浮いて、粉になって落ちた。
表面の錆が、薄片になって剥がれる。
剥がれた下から、鉄の色が出てきた。
角が立つ。稜が通る。打たれる面が、上から順に平らになっていく。
最後に艶が乗った。鏡になった。
俺の顔がそこに映っている。
「……はい、いいですよ」
手を離した。離した手が、少し熱かった。
鉄は木より速い。だが、大きいぶんだけ息が要る。
「終わりました」
誰も、何も言わなかった。
シルフィが戸口で口を押さえているのが、目の端に見えた。
ガドーは、押さえていた右手を離せずにいた。離したら崩れると思っているような手だった。
「……立て」
「はい」
「そこをどけ」
俺はどいた。
ガドーは壁の掛け具から槌を取った。
小さいほうの片手槌だ。柄が黒く光っている。
右手一本で、それを構えた。
そして、金床の面を、軽く叩いた。
きいん、と鳴った。
高い音だった。天井の抜けた屋根の、そのさらに上まで抜けていくような音だ。
尾が長い。長く引いて、細くなって、消えた。
途中で止まらなかった。
もう一度、叩いた。
同じ音がした。
「音が」
戸口でシルフィが言った。
「音が、どうかしましたか」
「わたしにも、わかります」
「そうですか」
「さっきの布の下から、こんな音はしません」
ガドーは三度目を叩かなかった。槌を金床の脇に置いて、その面へ手を伸ばした。触れる前に、指が止まった。
「……戻っとる」
「はい」
「音が、戻っとる」
「よかったです」
「よくない」
「え」
「よくない。こんなことがあってたまるか」
言いながら、手は面を撫でていた。
「……ああ」
ガドーの喉から、声が出た。
言葉ではなかった。
俺は、少し離れて立っていた。
こういうときは、下がっているほうがいい。
「あの」
「……」
「面のへこみ、そのままにしました」
ガドーが、顔を上げた。
「なに」
「真ん中、少し減ってますよね」
「……ああ」
「そこは、直してないです」
「なぜだ」
「壊れてないので」
ガドーは金床の面を指のはらでなぞった。中央のわずかに沈んだところを。何度も、往復させた。
「四代ぶんだ」
「はい」
「これが、減ってきたんだ」
「はい」
「……あんた」
そこで、言葉が切れた。
ガドーは、しばらく金床を見ていた。
それから、俺のほうへ向き直った。
右手が袖のところへ動く。袖をめくった。左手が出てきた。
指が四本とも潰れていた。第一関節から先が、内側へ曲がって固まっている。
爪が二枚ない。親指だけが、辛うじて動いていた。
ガドーは何も言わずに、その手を俺の前へ差し出した。




