第15話「残っていた男」
鍬の先が、まっすぐこちらを向いていた。
俺は立ち上がって、手の土をはたいた。
「あ、こんにちは」
「こんにちはではない」
「すみません」
「何をしとるかと聞いた」
「畑を直してました」
老人の眉が寄った。
「直す」
「はい」
「土をか」
「はい」
通じていないのが、顔でわかった。こういうときは、見てもらうのが早い。
「ここ、白かったんです」
「知っとる。二十年前から白い」
「いまは、黒いです」
老人が、鍬を下ろさずに一歩出た。
二歩、三歩。畑の縁で止まる。
そして、土を見た。
長いこと、見ていた。
白かった面が、いまは黒い。踏んだところに靴の跡がついて、その跡が湿って光っている。
老人は、鍬の先で土を軽く突いた。
突いた先が、すっと沈んだ。
「……誰の許しを得た」
「え」
「この畑はヤンの家のものだ」
「ヤンさん」
「村を出て、死んだと聞いた」
「……そうですか」
俺は頭を下げた。
「勝手に触って、すみませんでした」
「詫びる相手が違う」
「はい」
「わしにではない。ヤンにだ」
もっともだと思った。
俺は畑に向き直って、もう一度頭を下げた。
「ヤンさん、すみません」
「勝手に、直しました」
老人が、黙った。
鍬の柄が、少しだけ下がった。
「……あんた、名は」
「ルークです」
「どこから来た」
「王都のほうからです」
「何をしに来た」
「住みに来ました」
鍬がまた上がった。
「馬鹿を言うな」
「本当です」
「ここは死んだ村だ」
「はい」
「水が出ん」
「出ました」
老人の口が、途中で止まった。
「……なんと言った」
「井戸、出ましたよ」
「出るものか」
「今朝、出ました」
「二十年間涸れとる」
「石が崩れて、塞いでただけでした」
老人は動かなかった。
目だけが井戸のほうへ動いた。動いて、また戻ってくる。
「……あんた、何を売りに来た」
「売り物はないです」
「では盗みか」
「盗むものが、ないと思うんですけど」
「ある」
「……あるんですか」
「鍛冶場だ」
声が、低くなった。
「炉がある。金床がある。鏨も鑢も、置いたままだ」
「あ」
「あれを担いで売る手合いが、何度か来た」
「そうなんですか」
「みんな、追い返した」
鍬の握りが、また硬くなる。
なるほど、と思った。
この人は二十年、留守番をしていたのだ。誰も来ない村で、道具の番だけをして。
服は繕いの跡だらけだが、破れてはいない。自分で縫っている手だ。
俺は鍬から目を離した。
「じゃあ、あなたが」
「ガドーだ」
「ガドーさん」
「鍛冶をやっとった」
「やって、いないんですか」
返事はなかった。
背中で、草が鳴った。
シルフィだった。桶を提げて、沢のほうから戻ってきたところだ。
井戸が出たと言ったのに、まだ沢まで行っている。癖になっているらしい。
「ルーク様、水を——」
言いかけて、止まった。
ガドーが、その場で固まっている。視線が、シルフィの耳のところで止まっていた。
「……森の」
「はい」
「森の民が、なぜこんなところに」
「拾っていただきました」
「拾う」
「はい」
シルフィは桶を置いて、両手を前で重ねた。
背筋がすっと伸びる。初めて見る立ち方だった。声の出し方も、違った。
「エルダの森の、シルフィと申します」
ガドーの手から、鍬が落ちた。
柄が土の上に転がる。
「……聖女様か」
「いまは、ただのシルフィです」
「そんなわけがあるか」
ガドーは、深く頭を下げた。
腰から折る、古い形の礼だった。
「無礼を働いた」
「いいえ」
「森の方に鍬を向けた。首を刎ねられても文句は言えん」
「刎ねません」
「……」
「わたしの脚を、この方が直しました」
ガドーの顔が上がった。上がって、俺のほうを見た。
さっきまでの疑いが、そのまま残っている目だ。むしろ、濃くなっている。
「……脚を」
「はい。三年、腐っていました」
「腐った脚は治らん」
「治りました」
「治るものか」
ガドーは首を振った。
「森の術で治らなんだものが、この男に治せるか」
「治しては、いないんです」
俺は口を挟んだ。
挟んでから、順番が悪かったと思った。
「直しただけなので」
「同じだろう」
「違うんですけど、説明が難しくて」
「……」
「すみません」
ガドーは俺の顔を上から下まで見た。それから俺の手を見た。
鍛冶をやる人間は、まず手を見る。親方もそうだった。
俺は、素直に両手を上げて見せた。
隠すものがない。指の腹の硬さも、爪の潰れ方も、この人になら読めるだろう。
「手だな」
「はい」
「その手は、槌を握った手ではない」
「はい」
「鑢と、細工の手だ。十年やそこらの手ではない」
「十八年です」
「……」
「十で拾われて、十八まで親方に。それから十年、団で」
ガドーが、少し黙った。
黙って、俺の指の付け根のあたりを見ていた。
「団」
「勇者の団です」
「そこで何をしとった」
「修繕です」
「それだけか」
「それだけです」
ガドーは、鼻から息を吐いた。
「畑と井戸は、認める」
「はい」
「あれは土と石だ。人手と時をかければ、できんこともない」
「はい」
「だが、脚は認めん」
「はい」
「あんたが本当に直す男なら、証を見せろ」
俺は少し考えた。
「何を直せばいいですか」
「来い」
ガドーは鍬を拾って歩き出した。村の奥へだ。鍛冶場のある方向だった。
俺はシルフィと顔を見合わせて、あとを追った。
屋根の落ちた鍛冶場に入ると、ガドーは灰の匂いのするほうへ迷わず進んだ。
二十年、毎日ここを歩いた足取りだった。
中は、思っていたより片づいていた。
鏨も、鑢も、火箸も、壁の掛け具に順番どおり並んでいる。錆は浮いているが、油の跡がある。
誰かが拭いていたのだ。
炉の口だけが、ぽっかりと黒い。
そして、床の真ん中で止まった。
布がかぶせてある。埃をかぶった、厚い布だ。
ガドーは、それを掴んだ。
「これだ」
布が剥がれた。
黒い鉄の塊が、そこにあった。
金床だった。
角の丸みも、面の照りも、いい仕事のものだとひと目でわかる。
打たれた面の中央だけ、わずかにへこんでいた。何十年ぶんの槌の跡だ。
その真ん中が割れていた。斜めに深く。片方が床に転がっている。
割れ口が黒ずんでいる。三年ぶんの埃と、油の染みだ。
「……あ」
「なら、これを直してみろ」




