第14話「井戸と、畑と」
「下りますね」
「下りる」
「はい。触らないと直せないので」
俺は縁をまたいだ。
石積みの内側に、足のかかる出っ張りがある。汲む人が使う足場ではなく、掃除に下りるための段だ。二十年ぶんの苔で滑るが、踏めないほどではない。
「危ないです」
「はい」
「危ないです」
「二回言いましたね」
「わたしが下ります」
「駄目です」
珍しく、俺のほうが言い切った。
「シルフィさんは、そこで綱を持っててください」
「……はい」
「あと、俺が黙ったら呼んでください」
「黙ったら」
「はい。たまに、集中して聞こえなくなるので」
シルフィが綱を握り直した。握り方が硬い。
悪いことをしたな、と思った。
下りるにつれて、空気が変わった。
冷たい。だが、湿ってはいない。乾いた冷たさだ。井戸の中で乾いた匂いがするのは、あまりいい徴ではない。
底に着いた。
思ったより浅かった。腕を伸ばせば天井の口が見えるほどだ。
足の下は、白い砂だった。
「あー」
俺はしゃがんだ。
「これは、詰まってますね」
「なんですか」
上から声が降ってくる。
「砂です。細かいのが、みっしりと」
「水は」
「たぶん、この下です」
底の石組みに手を這わせた。
崩れている。輪に積んであった石が内側へ倒れて、隙間がふさがれていた。倒れたのは片側だけだ。地面が、どこかで一度ずれたのだろう。
石が倒れて、隙間が詰まって、そこへ砂が溜まった。
それだけのことだった。
「壊れてるのは、石ですね」
「石」
「はい。水は、たぶん、悪くないです」
「どういうことですか」
「脈は動いてません。口が塞がっただけです」
上で、少し黙る気配があった。
「では」
「はい」
「塞いだものを、どけるのですか」
「いえ。石を、もとの積み方に戻します」
俺は両手を石に当てた。
「こんにちは」
「長いこと、お疲れさまでした」
「いま、戻しますね」
この石が、まだ積まれたばかりだったころ。誰かが底に立って、一段ずつ回しながら並べていったころ。角と角を合わせ、隙間に小石を噛ませていったころを思う。
倒れていた石が、起き上がった。
押し戻されるのではない。下から順に、位置を思い出して滑っていく。角が角を探して、噛み合った。
石の目が揃い、輪が閉じる。
詰まっていた白い砂が、沈んだ。
沈んで、石の隙間へ吸い込まれ、消えた。
底が黒くなった。
黒い底の、真ん中あたりが、濡れた。
「あ」
滲んできた。
一点ではない。底のあちこちから同時にだ。染みが広がって、繋がって、面になる。
水の匂いがした。
「はい、いいですよ」
俺は手を離した。
離した手のひらが、濡れていた。
「ルーク様」
「はい」
「足元、足元」
「あ」
水が靴を越えていた。
思ったより速い。二十年ぶんの押さえが取れたのだから、当然かもしれない。
「上がります!」
俺は綱を掴んだ。
「引いてください!」
「はい!」
地上へ出るころには、水が底から腕二本ぶんまで来ていた。
桶を落とすと、いい音がした。
引き上げて、縁に置く。
澄んでいた。砂の粒ひとつ浮いていない。
「飲めますか」
「たぶん」
「たぶん」
「一杯目は、俺が飲みます」
俺は両手ですくって、口へ運んだ。
冷たい。舌の上で、少しだけ甘い。
「はい、大丈夫です」
シルフィは、桶に手を入れた。
入れて、しばらく動かさなかった。それから、水を掬って飲んだ。
飲んで、目を閉じた。
「……村の水です」
「え」
「井戸の水は、その村の味がします」
「へえ」
「この村は、甘いです」
「そうですか」
「はい」
「じゃあ、いい村ですね」
「……はい」
いい言い方だと思った。
俺には、そこまでわからない。
ただ、この人が二杯目を汲んだので、まずくはないのだろうと思った。
次は、畑だった。
村の東側に、四枚ある。柵の跡でわかる。
地面が白い。
塩だ。土の表面に粉を撒いたように浮いている。踏むと、しゃりしゃりと鳴った。
「これ、なんだと思います?」
「塩、でしょうか」
「はい。水が下から上がって、乾いて、置いていったやつです」
「これも、直せるのですか」
「直せますよ」
「……はい」
「土は、たぶん、木より素直ですよ」
俺はしゃがんで、土に手を置いた。
この土が、まだ黒かったころ。鋤が入って、根が伸びて、掌に握ると団子になったころを思う。
白い粒が浮いた。
地面から細かい粒が一斉に浮き上がる。浮いて、風に乗って、散った。
下から、黒が出てきた。
乾いてひび割れていた面が、内側から柔らかくなる。ひびが閉じて、土が細かく解けていく。
匂いが立った。雨のあとの匂いだ。
畑の端で何かが動いた。見るとミミズだった。土の中から出てきて、また潜っていった。
「はい、いいですよ」
俺は土に言った。
立ち上がって、手をはたく。
「四枚とも、やりますね」
「……」
「シルフィさん?」
「……土って」
シルフィが、しゃがんで土を握っていた。
握ると、団子になった。
「土って、直せるんですね」
「はい」
「石や、鉄ではなく」
「土も物ですから」
俺は、そう答えた。
特に変なことを言ったつもりはなかった。
シルフィは、握った土をしばらく見ていた。それから、そっと戻した。
「覚えます」
「はい」
最後に、石垣をやった。
畑と畑の境の、低いやつだ。三か所で崩れている。
崩れたぶんの石は、下草の中に転がっていた。拾い集めて、崩れ口の前に積む。
「これは、簡単ですよ」
「そうなのですか」
「はい。積んだ人の癖が、まだ残ってるので」
「癖」
「はい。この人は右利きですね」
「わかるのですか」
「噛ませ方が、全部おなじ向きです」
崩れ口に手を当てた。
石が、順に起き上がった。
下の段から、一つずつ。回りながら、噛む面を探して収まる。石と石のあいだに、小さいのが噛んだ。
三か所とも、閉じた。
「はい、いいですよ」
「……」
「これで、水と、土と、境ですね」
「はい」
「あとは、種ですか」
「種は、お持ちですか」
「ないです」
「……」
「種は、直せませんからね」
俺は笑った。
「買うしかないです」
その、ときだった。
畑の向こうで、草が鳴った。
風ではない。人の足が草を分ける音だ。
顔を上げる。
畑の反対側の端に、人が立っていた。
老人だった。背は低いが、肩が広い。腕が丸太のように太い。鍛冶をやる人間の腕だ。
その老人が、鍬を両手で構えていた。
振り上げてはいない。だが、いつでも振れる持ち方だった。
「——そこで何をしとる」
低い声が、畑を越えて届いた。




