第13話「二人の朝」
目が覚めたら、床が掃いてあった。
昨日まで、砂と木くずが薄く積もっていたところだ。それが、きれいに寄せられて隅にまとめてある。
戸が開いていて、朝の風が入っていた。
「おはようございます」
外から声がした。
起き上がって、戸口へ出る。
シルフィが桶を提げて立っていた。両手で持っている。中で水が揺れていた。
「あ、おはようございます」
「水を汲んできました」
「え」
「村の裏に、沢があります」
「知ってました?」
「昨日、探しました」
俺は言葉に詰まった。
そこまで頭が回っていなかった。井戸が涸れているのだから、村の人はどこかへ汲みに行っていたはずだ。それが沢だったのだろう。
「すみません、俺が行くべきでした」
「わたしが行きたかったのです」
桶の持ち手が、手のひらに赤い筋をつけていた。
「歩けるので」
それを言われると、何も言えない。
「重くないですか」
「軽いです」
「そうですか」
「三年ぶんの水より、軽いです」
意味はよくわからなかったが、うれしそうだった。
朝は、粥にした。
昨日の粉の残りと、沢で採ってきたという青いものを入れる。名前は知らないが、食べられるとシルフィが言った。
「これ、なんですか」
「森では、春の終わりに食べます」
「へえ」
湯の中で、葉が黒く沈んだ。匂いは悪くない。
「苦いです」
「苦いですね」
「体にいいのです」
「そう言われるやつは、だいたい苦いですね」
シルフィが、少しだけ笑った。
昨日より、笑い方が上手になっていた。口の端だけでなく、目のあたりまで動いている。
人の顔も、使わないと固まるのかもしれない。
食べ終わって、俺は椀を洗いに出た。戻ってくると、シルフィが小屋の隅にしゃがんでいた。
道具袋の前だ。
「あ」
「勝手にすみません」
「いえ、いいですよ」
「昨日、並べておられたので」
「はい。癖です」
俺はしゃがんで、袋の口を開けた。
鑢が三本。金槌がひとつ。油の壜。
「これで全部です」
「少ないです」
「使うものだけ持ってるので」
団の工房には、道具が壁一面にあった。
どれも団の物だった。持ち出せたのは、この袋だけだ。惜しいとは思わなかった。
シルフィは、鑢の一本を指した。
いちばん細い鑢。刃の目が、もうほとんど平らになっている。
「これは」
「あー、それは、だいぶ減りましたね」
「使えるのですか」
「使えますよ。仕上げのときだけ」
「金槌も」
シルフィが、柄の真ん中を見た。
そこだけ色が濃い。指の当たるところが、わずかにへこんでいる。
「へこんでいます」
「はい」
「ルーク様」
「はい」
「直したほうが、よろしいのでは」
俺の手が、止まった。
止まったのが、自分でもわかった。
腹の底がすっと冷えた。こういう冷え方は久しぶりだった。
「……それは、しません」
声が、思ったより低く出た。
シルフィがこちらを見た。
「あの」
「はい」
「怒っていますか」
「少し」
嘘はつかなかった。
自分でも驚いていた。人に腹を立てたのは、ずいぶん久しぶりだ。
「すみません。いま、少し怒りました」
「……いえ」
「悪いのは、俺です」
「わたしが、余計なことを」
「そうじゃないです」
俺は金槌を取り上げた。
柄を握る。窪みに指がぴたりと入った。
「これ、俺が作った窪みじゃないんです」
「……」
「親方の指の跡です」
「え」
「親方が長いこと使って、そのあと俺です」
シルフィが、口を開けた。
「窪みが、二人ぶんあるんですね」
俺はうなずいた。
「では、なおさら」
「直したら、消えます」
「……」
「消えたら、握ったときに、どこを持てばいいかわからなくなります」
言いながら、うまく言えていないと思った。
言葉にすると、こんなに小さくなる。
「道具は、減るんです」
鑢の目を親指でなぞった。平らになった目が、それでも指を噛む。
「減ったぶんは、俺の手が覚えてます」
「……はい」
「戻したら、手のほうが困るんですよ」
親方は、これを一度も直さなかった。
柄が割れたときだけ、割れたところを継いだ。窪みは残したままだった。
いま思えば、あれは残したのだ。減ったから、ではなく。
シルフィは、しばらく黙っていた。
それから、深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
「いえ」
「わたしは、直すことをいいことだと思っていました」
「たいていはいいことですよ」
「ですが」
シルフィが顔を上げた。
「これは、違うのですね」
俺はうなずいた。
うまく言えた気がしなかったが、伝わったらしい。
「ひとつ、お聞きしてもいいですか」
「どうぞ」
「では、どこからが壊れているのですか」
いい質問だった。
答えるのに、少し時間がかかった。
「使えなくなったら、壊れてます」
「それだけですか」
「それだけです」
「減っているのは」
「減ってるのは、使ってる証拠です」
「……なるほど」
「あと、持ち主が困ってなければ、壊れてません」
「困っていなければ」
うなずいた。うまい言い方が、やはり出てこない。
「困ってないものを直すのは、たぶん、よくないです」
シルフィは、いま聞いたことを頭の中で並べているようだった。
しばらくして、こう言った。
「覚えます」
「そんな大したことじゃないですよ」
シルフィは引かなかった。
「覚えます」
二度言われた。
これも、直らないやつだ。
「……はい」
「あと、さっきのは、いい質問でした」
「いい」
「はい。俺、考えたことなかったので」
シルフィが、目を丸くした。
それから、口元を押さえた。
「笑いました?」
「……いいえ」
「笑いましたよね」
「いいえ」
外へ出た。
空が高い。今日は暑くなりそうだ。
「じゃあ、仕事しますね」
シルフィが桶を置いて、袖をまくった。
「何からやりましょうか」
「わたしに聞かれても」
「いや、一緒に住むので。相談です」
シルフィが、少し黙った。黙って、それから、庭の真ん中を指した。
「水は、遠いです」
「ですよね」
俺も、そう思っていた。
村の裏まで往復するのは、毎日となるときつい。桶を提げて坂を上がるのは、なおさらだ。
庭の真ん中に、石を積んだ丸い縁がある。
来た日に、縁だけ直しておいたやつだ。中を見るのは、後回しにしていた。
俺は歩いていって、その縁に手をかけた。
覗き込む。
暗い。底のほうに、白っぽいものが見える。乾いた砂だ。石を一つ落とすと、乾いた音がして、それきりだった。
水の匂いがしない。
「……ああ」
俺はつぶやいた。
「これ、壊れてるなあ」




