第12話「跪くエルフ」
しばらく、誰も何も言わなかった。
シルフィは二本の刃を並べたまま、指先で刃元をなぞっている。何度も、同じところを。
今朝、自分の脚にしていたのと同じ手つきだった。
「あの」
「……」
「触っても大丈夫ですよ。もう欠けません」
「……はい」
「よかったですね」
シルフィは、短剣のほうを取り上げた。
両手で持って、胸の高さで止める。それから、ゆっくりと立ち上がった。
「あ、まだ立たないほうが」
「大丈夫です」
声が、出ていた。
さっきまで出なかった声だ。かすれてはいたが、はっきりしていた。
シルフィは小屋の真ん中まで歩いて、こちらを向いた。
そして、膝を折った。
片膝ではない。両膝だった。
「え」
俺は立ち上がりかけた。
間に合わなかった。
シルフィは短剣を床に置いて、その前に額をつけた。
両手を、手のひらを上に向けて前へ出す。
差し出すというより、預ける形だった。
「あ、いや、待って。待ってください」
「……」
「床、掃いてないんですけど」
「かまいません」
「かまってください」
俺はうろたえた。
どこを見ればいいのかわからず、天井を見た。天井は昨日直したばかりで、やたらときれいだった。
人にこんなことをされたことがない。十年、勇者の団にいたが、誰も俺に頭を下げなかった。下げる用事がなかった。
「シルフィさん」
「……」
「顔、上げてください」
「上げられません」
「なんでですか」
「これは、そういう礼です」
声が、床に向かって放たれている。
「わたしたちが、大樹にしか向けない礼です」
「木にする礼ですよね、それ」
「はい」
「じゃあ、俺じゃないですね」
「あなたです」
「違うと思います」
「わたしが決めます」
言い切られた。
困ったので、俺は椅子を探した。
この小屋に椅子はない。腰掛けが一つだけ隅に転がっていた。脚が二本折れて、座面が割れている。
二十年、そこに転がっていたのだろう。座る人がいなくなった日からずっと。
「ちょっと待ってください」
俺はそれを引き寄せて、割れ目に手を置いた。
木の話は早い。
折れ口の繊維が伸びて、噛み合って、脚が四本に戻った。座面の割れが閉じて、板目が繋がる。
かん、と軽い音がした。
「はい、いいですよ」
腰掛けを、シルフィの横に置いた。
「これ、使ってください」
「……」
「膝、痛くなりますよ」
「ルーク様」
俺は固まった。
「いま、なんて」
「ルーク様」
「様はやめてください」
「はい、ルーク様」
「やめてくださいって言いました」
「はい、ルーク様」
二度言われた。
これは、直らないやつだ。俺にもわかる。
「……はい」
「聞いてください」
シルフィは額を床につけたまま、言った。
「わたしの名を、あなたに預けます」
言い方が、決まった文句のそれだった。
覚えている言葉なのだと思う。ずっと前に覚えて、使う日が来ないまま持っていた言葉だ。
「この刃を、あなたに預けます」
「はい」
「残りの生涯を、あなたに預けます」
「多いです」
「多くありません」
「多いですよ」
俺は本気で言った。
「それ、全部ですよね」
「全部です」
「困ります」
「困ってください」
やり返された。
シルフィは、ようやく顔を上げた。
目が赤い。だが、涙は落ちていなかった。落とさないと決めた顔だった。
「三年前、わたしは死ぬはずでした」
「はい」
「森の術者がわたしを寝台に縛って、十日押さえました」
「聞きました」
「そのあと、長老たちが集まって話し合いました」
声は平らだった。恨みも、怒りも入っていない。
何度も自分に話して聞かせた話は、こういう平らさになる。
「わたしは、外へ出ました」
「追い出されたんですか」
「……いいえ」
シルフィは首を振った。
「誰も悪くありません」
「そうですか」
「救えないと決まったものを、そばに置くのはつらいので」
「はい」
「わたしが、出ると言いました」
俺はうなずいた。
その話は、たぶんそのとおりなのだろう。
俺には、直せるかどうかしかわからない。誰が悪いかは、わからない。
「それから、ずっと歩いていました」
右の靴の減り方を思い出した。
あの減り方をつけるのに、どれだけ歩けばいいのか、俺にはわからない。
「歩けなくなったら、そこで終わりだと思っていました」
「はい」
「昨日、歩けなくなりました」
「そこに、あなたがいました」
シルフィは床の短剣を見た。
「母の刃まで、戻ってきました」
「よかったです」
「よくないのです」
「よくないですか」
「返せるものが、何もありません」
そこで、声が途切れた。
俺は少し考えた。
考えて、立ち上がった。
荷の底に麦の粉が残っていた。
宿場で買ったものだ。ひとつかみ半くらい。もう膨らむ力はないだろうが、焼くだけなら焼ける。
水で練って、塩を落として、平たくのばした。炉の底の石は、昨日のうちに直してある。
「何を」
「パンです」
「……パン」
「はい」
石の上に生地を置くと、じきに縁が浮いてきた。
膨らまないぶん、薄く硬いパンになる。旅の途中でよく焼いたやつだ。
焦げる匂いがする。小屋の中が、急にいい匂いになった。
「あの」
俺は焼けたのを一枚、布に取って差し出した。
「これ、食べてください」
「……」
「工賃です」
シルフィが、目を丸くした。
「工賃は、いただくほうでは」
「はい。俺がもらいます」
「……」
「あなたが食べたら、もらったことにします」
「意味がわかりません」
「俺もです」
正直に言った。
「でも、そう決めました」
シルフィは、布ごと受け取った。
両手で持ってしばらく見ていた。それから、端を小さくちぎって、口に入れた。
噛んだ。
噛んで、止まった。
肩が下がって、背中が丸くなった。
声は出さなかった。ただ、パンを持つ手の甲に、水が一粒落ちた。
「あ、熱かったですか」
「……いいえ」
「ならよかった」
「……はい」
俺は自分のぶんを焼いて、床に座った。
二人で、しばらく食べた。
噛む音だけがしている。塩気が足りない。明日は塩を探そう、と思った。
外が明るい。もう昼に近い。今日は井戸を見るつもりだったな、と思い出した。
「ルーク様」
「はい。あ、様は」
「ルーク様」
シルフィは、パンの残りを膝に置いた。
背筋を伸ばして、まっすぐこちらを見た。
「お願いがあります」
「はい」
「この村に、置いてください」




