第117話「看板」
褒賞は家だった。坂の中ほどにある、石の建物だ。間口が宿の三軒ぶんある。
「広いですね」
「工房でございます」
「これがですか」
「はい」
「宿ですよね」
「工房でございます」
ジェラルド公は二度同じことを言った。二度言うときは、譲らないという意味らしい。
中は、もっと広かった。
土間があって、その奥に炉がある。
炉は新しく積んであった。積んだ人は上手だった。煙の抜けが、上から見なくても分かる。
「炉、いいですね」
「気に入られたか」
「積んだ人に、会いたいです」
「呼ぼう」
「いえ、いいです」
「なぜだ」
「褒めると、仕事が増えるので」
二階に部屋が四つあった。ミオさんが全部の部屋に入って出てきた。
「四つあるニャ」
「多いですね」
「多い」
「三つ余りますね」
「余らない」
「余りますよ」
「一つは、道具の部屋」
「そうですね」
「一つは、寝る部屋」
「はい」
「一つは、シルフィの部屋」
「四つ目は」
「あたしの部屋」
「二階、全部ですね」
ミオさんは返事をしないで、階段を下りていった。下りる足音が軽かった。
夕方に、シルフィさんが板を持ってきた。樫の板だ。
厚みが指二本ある。
彫るために、割った板だった。
「これは」
「看板でございます」
「もう用意したんですか」
「はい」
「早いですね」
「彫りました」
「いつですか」
「昨夜でございます」
板を返してもらった。
彫りは深かった。深いのに、線が揺れていない。
この人は、手先がいい。
文字を読んだ。
「王立神匠ルーク工房」
「はい」
「長いです」
「長うございますか」
「長いです」
「では、どのように」
「彫り直します」
俺は鑿を借りた。字を削った。削って、下から彫り直した。
「修理屋ルーク」
「……はい」
「あと、小さく」
「はい」
「王都出張所」
「……」
「これで、通じますよね」
「……通じます」
シルフィさんはそこで少し息を吐いてから、荷の下からもう一枚出した。
同じ樫の板だった。
同じ字がもう彫ってある。
「なんですか、それ」
「二枚目でございます」
「なんで二枚あるんですか」
「彫り直されると、存じておりました」
「……そうですか」
「はい」
俺はその二枚目も削った。削るのは、そんなに手間ではない。
削って、二枚とも表へ吊った。吊ったら、坂の上から見えた。
翌朝、看板が違っていた。
樫は樫のままだ。だが、大きさが倍あった。厚みも、倍あった。
真ん中に、獅子が浮き彫りにされている。
彫りの底に金が入れてあった。
金は、薄く延ばしたものを押し込んである。押し込む仕事は丸一日かかる。
誰が吊ったのかは、聞かなかった。
俺の彫った字は、下のほうに残っていた。残っているが、獅子のほうが大きい。どちらが看板かと言われたら、獅子だ。
留めの金具も換わっていた。鉄ではなく、真鍮だった。
真鍮は雨に強い。
強いぶん、外しにくい。
俺はしばらく見上げていた。
「ルーク」
「はい」
「顔が変ニャ」
「そうですか」
「変」
「あの」
「うん」
「これ、彫り直せないやつですね」
「うん」
「金、入ってますし」
「入ってる」
「獅子、いますし」
「いる」
「……そうですか」
ミオさんは看板の下に立って、背を伸ばした。伸ばして、頭の上に手を平らに置いた。
置いた手が、看板の下の縁に届かない。
「届かないニャ」
「届かないですね」
「去年は、もっと低かった」
「看板がですか」
「あたしが」
シルフィさんは、俺の横で看板を見上げていた。見上げて、何も言わなかった。
言わないが、少し、口の端が動いていた。この人が笑うのは、年に何度もない。
昼に、ロッタさんが来た。天秤を担いで、桶を提げていた。入口で桶を下ろした。
「あんた」
「はい」
「あたしが、水道番だってさ」
「聞きました」
「字が読めないのに」
「読める人を、雇うんですよね」
「雇った」
「早いですね」
「孫だよ」
「いいと思います」
ロッタさんは天秤を土間に置いた。置いてから、桶を指した。
「これ、頼めるかい」
「はい」
「銭はある」
「あとでいいです」
「先に払う」
「じゃあ、あとで受け取ります」
桶は底が減っていた。
五十年、地面に置かれた底だ。外側だけ、削れている。
板の木口から、繊維が起きてきた。起きて、内へ寄って、詰まった。
詰まると、厚みが戻る。箍もいっしょに締まった。
天秤棒は樫だった。
両端が割れかけている。
その割れが、内から閉じた。閉じるとき、乾いた音がした。
真ん中はへこんでいる。
肩の当たるところだけ、細くなっていた。
俺はそこに手を置かなかった。
「はい、いいですよ」
「真ん中は」
「そのままにしました」
「なんで」
「肩が、覚えてるので」
ロッタさんは天秤を担いだ。担いで、しばらく動かなかった。
それから、担いだまま、頭を下げた。下げたとき、天秤が揺れなかった。
夕方に、イレーヌさんが来た。帳面を持って、土間の隅に座っていた。座って、一行も書いていなかった。
この人はいつも先に書く人だ。
書いてから、こちらに確かめる。
その順が、逆になっていた。
「進みませんか」
「進まないわ」
「そうですか」
「あなたのせいよ」
「すみません」
「謝らないで」
「はい」
その人は帳面を裏返した。裏返して、表紙を見ていた。
「依頼名は、書けたの」
「はい」
「城の水を出すこと、と書いたわ」
「合ってますね」
「合っていないのよ」
「そうですか」
「あなたは、王都の水を全部出したの」
「出ましたね」
「出た、じゃないの」
「はい」
イレーヌさんは帳面を閉じて、膝の上に置いた。
「本部の記録に、何と書けばいいのかしら」
「そのままでいいんじゃないですか」
「そのまま」
「修理をした、で」
「……修理」
「はい」
「千年の」
「千年でも、修理ですよ」
その人は返さなかった。返さずに、帳面をまた開いた。
開いて、また閉じた。
三度、繰り返した。
そのとき、表で馬が止まった。止まって、扉が叩かれた。
叩き方が丁寧だった。
ジェラルド公だった。昼と、服が違っていた。
「修理屋どの」
「はい」
「座ってよいか」
「どうぞ」
「立ったまま言う」
「はい」
「陛下は、あなたに爵位を授けたいと仰せだ」




