第116話「重なる図」
朝にまた広間へ呼ばれた。床の紙はそのままだった。誰も、片付けていない。
靴を脱いで、端から入った。
「寝たか」
「寝ました」
「どれだけだ」
「三刻です」
「足らんな」
「オズワルドさんは」
「寝とらん」
「だめですよ」
「あとで寝る」
その人の手に束がもう一つあった。昨日の束ではない。
綴じ紐が黒かった。
黒いのは、局の日録だと聞いた。
「メッツ」
「はい」
「薄紙を、二十枚出せ」
「二十でございますか」
「写す」
「何をでございます」
「日録だ」
メッツさんは聞き返さずに、若い技師を呼んだ。
六人が卓を運んできた。運んで、薄紙を並べた。
日録は、二百年ぶんあった。紙が硬くなって、開くと音がする。
開くたびに粉が落ちた。
字は、書いた人ごとに違った。
几帳面な字と、崩れた字がある。
崩れた字のほうが、書いた数が多い。急いで書く用があったのだと思う。
「墨で塗れ」
「どこをでございますか」
「役人が、澱んでいると書いた区画だ」
「……全部でございますか」
「全部だ」
昼までかかった。
俺は手が空いたので、卓の脚を締めた。脚が一本、緩んでいた。
締めたら、若い技師が礼を言った。礼を言ってから、少し泣きそうな顔をした。三日、寝ていない顔だ。
塗り終わった薄紙が、二十枚になった。
墨の点が散っている。朱と同じで、線に沿ってはいない。途中にばらばらにある。
「持て」
「はい」
俺は二十枚を胸の高さで持った。
オズワルドさんは灯りを持った。
窓の鎧戸を、メッツさんが閉めた。
広間が暗くなった。暗くすると、床の朱が沈む。沈んだところへ、灯りが来た。
「下ろせ」
「ゆっくりですか」
「ゆっくりだ」
薄紙を床の紙の上へ下ろした。端を合わせた。
合わせる印は、四十年前から入っている。
入れた人は、この人だ。
「灯りを、下から」
「入りません」
「入る」
オズワルドさんが床に伏せて、紙の下へ灯りを差し入れた。
六十をいくつも過ぎた人が、床に腹をつけている。誰も、止めなかった。
紙が下から明るくなった。
薄紙は透けた。
透けた先に、朱がある。その上に、墨が乗っている。
「見ろ」
「見てます」
「どうだ」
「重なってますね」
朱の点と、墨の点が同じ場所にあった。
少しずれているものもある。ずれても、指の幅ほどだ。
朱だけの場所は十いくつあった。
墨だけの場所は、七つか八つだった。
残りは、全部、上下に重なっていた。
俺は目を近づけた。近づけると、墨の縁が滲んでいる。
滲んだのは、湿った場所で書いたからだ。
書いた人は、下にいたことになる。下で、腰を屈めて書いたのだと思う。
「二百年ぶんだ」
「はい」
「書いた役人は、十九人おる」
「十九人ですか」
「互いに、会っておらん」
「そうですね」
「わしの朱は、四十年だ」
「はい」
「役人は、印を知らん」
「知らないですね」
「わしは、日録を四十年見ておらんかった」
「見なかったんですか」
「読む気にならんかった」
「そうですか」
「今朝、開いた」
その人はそこで灯りを持ち直した。持ち直した手が、また震えていた。
「重なる」
「重なりますね」
「重なるが」
「はい」
「どちらが先かは、わからん」
俺は床に手をついた。ついて、もう一度見た。
朱と墨の境が、ほとんど動かない。動かないのは、同じところだからだ。
「印があるから、澱んだのか」
「はい」
「澱んだから、直しに来たのか」
「はい」
「それは、わからん」
「わからないですか」
「わからん」
「じゃあ、わからないですね」
「わからん」
オズワルドさんは灯りを引き抜いた。抜くと、紙がまた暗くなった。
暗くなると、墨も朱も見えない。
見えないだけで、そこにある。
鎧戸を開けたのは、メッツさんだった。開けて、そのまま窓の縁を握っていた。握った指が白かった。
「……技師長」
「なんだ」
「私は」
「言え」
「十二年、笑っておりました」
「知っとる」
「あなたが札を裏返すのを、後ろで見ておりました」
「見ておったな」
「四つしか動かぬものを、と」
「思っておったな」
「……はい」
メッツさんはそこで窓から手を離して、こちらへ向き直った。向き直って、床を見た。
床には、四十年と二百年が、重なって置いてある。
それから、腰を折った。深く、折った。
「……申し訳ございませんでした」
オズワルドさんは何も言わなかった。勝った顔もしなかった。しばらく、立っていた。
「顔を上げよ」
「はい」
「わしも、笑われて当然だった」
「そのようなことは」
「四十年、直せんと言い続けただけだ」
「……」
「塗っただけだ」
「……はい」
俺はそこで少し困った。困ったので、床を見ていた。
朱の点が、散っている。
多いところと、無いところがある。
多いところは、壊れやすいところだ。無いところは、壊れなかったところだ。
それだけの図だと、俺は思っている。
直したところに印がある。それ以上のことは、書いていない。
ただ、一つだけ気になった。
昨日から気になっていた。
「オズワルドさん」
「なんだ」
「聞いてもいいですか」
「言え」
「この印、途中で止まってますよね」
「……止まっとる」
「新しいところに、無いですね」
「無い」
「いつまでですか」
「わからん。日録の二百年ぶんには、一つも増えとらん」
「そうですか」
俺は金槌の柄を、袋の上から押さえた。押さえて、思ったことを言った。
「親方、なんで途中でやめたんでしょうね」
誰も答えなかった。
オズワルドさんは、床を見ていた。
メッツさんは、腰を折ったままの形で止まっていた。
若い技師が六人とも動かなかった。
シルフィさんは俺の後ろにいた。後ろで、何も言わなかった。
この人が黙るときは、答えを持っている。持っていても、言わないときがある。
俺はそれ以上聞かなかった。聞かないほうがいい気が、少しだけした。
広間が、静かだった。外から、水の音がしていた。
三日前まで無かった音だ。
その音のなかを、階段が鳴った。鳴って、扉が開いた。
城の使いだった。服が、昨日の者とは違う。
「宮廷技師長、ならびに」
「はい」
「オルトの修理屋ルーク」
「俺です」
「王城へ、お運びを願います」
「今からですか」
「今からでございます」
「三日、寝てないんですけど」
「……陛下が」
「はい」
「褒賞を、お決めになりました」




