第115話「名を残さなかった者たち」
宿の卓に灯りを一つ置いた。二つ点けようとしたら、止められた。
「一つで、けっこうでございます」
「暗いですよ」
「暗いほうが、話せます」
「そうですか」
「はい」
シルフィさんは椅子に座らなかった。床に膝を折って、そこへ座った。
両手を、膝の上で揃えている。
背が真っすぐだった。
ミオさんは卓の上に乗って、膝を抱えている。
ダグさんは扉の横に立って、腕を組んでいた。
誰も、下がらなかった。
窓は閉めてあった。
閉めても、坂の下の音が入る。
水盤の音だ。夜になっても、止まっていない。
「ルーク様」
「はい」
「森の伝承の話を、いたします」
「聞きます」
「長うございます」
「大丈夫です」
その人はそこで一度息を入れた。入れた息が、途中で震えた。震えたのは、最初の一言だけだった。
「……伝承に残っているのは、名ではありません」
「名前がないんですか」
「ございません」
「じゃあ、何が残ってるんですか」
「手だけです」
「手」
「はい」
「顔は」
「描かれておりません」
「ずっと手なんですか」
「ずっと、手です」
俺は自分の手を見た。
三日ぶんの手だ。
皮が剥けて、爪の際が黒い。絵にしても、面白くないと思った。
シルフィさんは卓の脚を見ていた。脚の木目を、目でなぞっている。
「あの方たちは、何も作りませんでした」
「城も、塔も、船も」
「作らないんですか」
「一つも」
「じゃあ、何してたんですか」
「壊れたものを、直しておりました」
「ずっとですか」
「ずっとでございます」
「よく飽きないですね」
「……はい」
「壊れるものは、いくらでもありますからね」
「はい」
シルフィさんはそこで少し目を伏せた。伏せて、また上げた。
「国も持ちませんでした」
「土地も、旗も、王も」
「身軽でいいですね」
「名も残しませんでした」
「墓もですか」
「墓も、ございません」
「じゃあ、何が残ってるんですか」
「直した場所に、印だけを置きました」
ミオさんが耳を動かした。動かして、卓の上で膝を抱え直した。
「なんで畏れられたの」
「……はい」
「直すだけなんでしょ」
「はい」
「いい人じゃない」
「いい方たちでございました」
「じゃあ、なんで」
シルフィさんはミオさんのほうを見た。見て、まっすぐ答えた。
「森が畏れたのは、あの方たちが世界の形を決めていたからです」
誰も、返さなかった。
ダグさんが腕を組み直した。灯りが、細くなった。油が、減っている。
「決めるって、なに」
「石を直せば、石の形が決まります」
「うん」
「川を直せば、川の道が決まります」
「山を直せば、山の高さが決まります」
「……」
「あの方たちが直した形が、そのまま世の形になりました」
「本人は」
「決めているとは、思っておりません」
「思ってない」
「壊れたものを、直しているだけでございます」
「……」
「それが、いちばん畏ろしいことでした」
俺は話の半分も分かっていなかった。分からないので、聞いた。
「その人たちは、いまどこにいるんですか」
「おりません」
「いなくなったんですか」
「……わかりません」
「わからない」
「はい」
「伝承には」
「そこから先が、ございません」
「途中で終わってるんですか」
「終わっております」
俺は天井を見た。梁が、二本ある。二本とも、継いであった。
継いだのは、宿の人だ。
継ぎ方は下手だった。
下手でも、落ちていない。落ちていないので、直さない。
シルフィさんは膝の上の指を組み直した。組んで、また揃えた。
「……そして、ある時期から、印が増えなくなりました」
「はい」
「壊れなくなったんですかね」
「壊れております」
「じゃあ、直してないですね」
「はい」
「なんでですか」
「なぜかは、伝承が語りません」
「そうですか」
「わたくしも、存じません」
「そうですか」
「……申し訳ございません」
「謝らなくていいですよ」
「はい」
「知らないことは、知らないので」
シルフィさんは頭を下げなかった。下げないのが、この人の礼だ。
灯りの芯が一度跳ねた。
跳ねて、また落ち着いた。
シルフィさんはそこで手を膝から下ろした。下ろして、床に置いた。
「ルーク様」
「はい」
「あの、要の石のときです」
「大きいやつですね」
「はい」
「土を払ったところですか」
「はい」
「覚えてます」
「あのとき、いいえ、と申しました」
「言いましたね」
「あれは、嘘です」
その人の指が、床の板の縁を押さえた。押さえた指が白くなった。白くなってから、力が抜けた。
「そうだったんですか」
俺はそう言った。
言ってから、何か足したほうがいいかと思った。
思ったが、足すことが無かった。
シルフィさんは顔を上げた。上げた顔が、こちらを見ていた。
「……お怒りに、ならないのですか」
「なんでですか」
「わたくしは、嘘をつきました」
「つきましたね」
「三度目だと数えておりながら、知らぬと申しました」
「はい」
「その前から、存じておりました」
「そうなんですね」
「はい」
「そっちのほうが、長いですね」
「……長うございます」
「嘘つくの、大変だったでしょう」
シルフィさんはそこで止まった。止まって、口を開いた。開いたまま、しばらく声が出なかった。
「……はい」
「食べるとき、気になりますよね」
「……はい」
「言おうか言うまいか、考えますよね」
「……はい」
「毎日ですもんね」
「……はい」
「じゃあ、終わってよかったです」
俺は水を飲んで、椀を置いた。置いた音が、思ったより大きかった。
誰も、しゃべらなかった。
ダグさんが扉の横で目を閉じていた。寝ているのではない。
この人は、聞くときに目を閉じる。
灯りの油が底に近い。
近いのに、誰も足さなかった。
足すと、話が切れる。
ミオさんが卓から下りて、シルフィさんの正面に立った。立って、まっすぐ見た。
「シルフィ」
「はい」
「一つ、聞いていい」
「どうぞ」
「印は、直した人が置くんだよね」
「はい」
「置くのは、直せる人だけ」
「……はい」
「ほかの人は、置けない」
「置けません」
ミオさんの尾が止まっていた。止まったまま、耳だけが動いた。
ミオさんはそこで一度耳を伏せた。伏せて、俺のほうを見た。
見てから、また戻した。
「じゃあ、ルークの親方も、その……」
「はい」
シルフィさんはそれだけ答えた。否定も、言い添えもしなかった。
ミオさんは指を一本折って、二本目を折った。
鉄くずと、短剣と、要の石と、金槌だ。四本、折れた。
俺はその指を見た。
何を数えたのかは、分からなかった。
折ったまま、しばらく黙っていた。黙って、それから顔を上げた。
「……じゃあ、ルークは?」




